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CHAPTER 1

『囀る鳥は羽ばたかない』を読む

——本作、および、日本のBL ・やおいコミックにおける
愛と性、関係性と「生(せい)の様式の選択」をめぐる物語を分析する

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ヨネダコウによるマンガ作品『囀る鳥は羽ばたかない(英題:Twittering Birds Never Fly)』(2011年〜、大洋図書:東京刊)は、一般に、1970年代に、少女マンガの世界における「少年愛」や「耽美的なるものへの憧憬や愛」を主題とした幾つかの作品をパイオニアとして発展してきたとされる、日本のやおい・BLコミック——「ボーイズラブ」、あるいはより適切には、「男性同士の恋愛、性、関係性のロマンス」と言うべきだが、そのほとんどが女性マンガ家による、主に女性の熱狂的な読者のための作品である——が築いてきた半世紀以上の長い歴史においても、他に類を見ないほど卓越した、真の傑作のひとつとして、広く称讃され愛読されているきわめて秀逸な作品である。

 

第一に、本作の成功の理由としてなによりもまず挙げられるべき重要なことは、そもそも、本作が、マンガ、日本のグラフィック・ノベルとして、ひじょうに丹念かつ精緻につくりこまれ、完成度の高い成熟した作品として仕上げられているという点だ。物語が、セリフが、コマが、絵が、じつによくできた一大叙事詩、大作映画や偉大な文学作品のように、あるいはそれらの多くの作品以上に絶妙に、展開する。それぞれの章はたいへん濃密なエピソードに溢れ、繊細かつダイナミックに、読者の感情(センティメンタリティ)と官能(センシュアリティ)を深部から揺さぶり、ハイ・クォリティで美しい、シネマティックなイメージのシークエンスとともに描かれ、語られる。イメージにせよテキストにせよ、無意味で不要な部分や「緩い」ページを見つけることは、不可能に思える。物語は、主にふたつの階層で展開し、それらが互いに絡み合い、繊細かつ重層的で複雑なストーリーを生み出している。ひとつは、メイン・キャラクターの男性ふたりの恋愛と性、関係性とそれぞれの人生を生きる態度、「生の様式の選択」をめぐる物語、もうひとつは東京を舞台としたヤクザの裏社会(アンダーワールド)の物語である。

 

本作は、ふたつの前身となる短編から始まった作品である。2008年に発表された「Don't stay gold」と2009年に発表された「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」だ。この2編は、現在、単行本『囀る鳥は羽ばたかない』第1巻に収録されている。その後、2011年より隔月刊BLコミック誌『HertZ』(のちに『ihr HertZ』と改称)にて本作の連載が開始され、2022年の現在も継続中である。*1

 

日本語版の第1巻から第6巻までの累計販売部数は、2020年2月時点で、150万部を突破。このジャンルのマンガ作品としては異例の数字である。* 2 また、本作は、きわめて早い段階から多くの言語に翻訳され、いまや事実、世界中で刊行されており、日本国内はもちろん、海外でもひじょうに高い人気を博している。一例を挙げると、日本のちるちる主催による人気投票「BLアワード」の「コミック部門」では2014年に1巻が、「表紙デザイン部門」では同じく2014年に2巻が、「シリーズ部門」では2016年に3巻、2017年に4巻、2018年に5巻、2020年に6巻、2022年に7巻が、第1位にランクインしている。*3 2020年2月には劇場版アニメ映画第1弾が初公開され、今後、第2弾、第3弾の発表が待たれている(全部で何作制作されるかはまだわからない)。これら本作をめぐる驚異的なデータの数々はすべて、この作品が長年にわたって桁外れの成功と人気を誇ってきたことを物語っている。

 

第二に、本作が作品として成功したもうひとつの重要な理由は、本作がたいへん個性的で鮮烈な魅力溢れるふたりのメイン・キャラクターを創造し、強烈な磁力(マグネティック・フォース)にも似た力で、世界中の読者を惹きつけてきたという点にある。

 

物語の主役であるヒーロー(、そして「ヒロイン」)は、矢代という名の男である(作中では彼の下の名前は明かされていない)。36歳。東京に生きるヤクザとして相当の成功を収めており、本家執行部・道心会傘下の直系に当たる真誠会という組織で若頭を務め、組の経営する企業「真誠興業」のフロントマンとしても活躍している。誰よりも頭が切れ、金を稼ぎ出すことに長けており、つねにクールで颯爽と振る舞いつつ、上品で美しい顔立ちとしたたかな度胸を併せ持ち、大都市・東京の裏社会をしなやかに渡り歩いている。そして、その一方で、悪名高い「淫乱ネコ」「ドMの変態」として知られ、組織の幹部や多くの男たち(基本的に、周囲の男、誰であろうとも受け入れているのだが、彼ら)御用達の「公衆便所」と噂され評されている。*4  他のヤクザや周囲の人間の大半は、矢代のことを、「馬鹿にしているか、怖れているか」のいずれかである。矢代本人のセリフ「人間は矛盾でできている」という言葉にあるとおり、彼自身もその例外ではない。むしろ、彼は私たち人間の極端な一例(サンプル)なのだ。一方で「男が好きなわけじゃない」と言いながら、他方では「何人もの男に犯されたい」とも言う。幼い頃からマゾヒストだったと語りながら、同時にサドっ気も持ち合わせていると自認する。そんな男をなんらかの単純明快なカテゴリーに位置づけステレオタイプ化することは不可能だ。彼はただ「彼」なのだ。我が子を育児放棄(ネグレクト)した母親のもと、小学校3年生(8〜9歳)の頃から中学の頃まで長年、母親の再婚相手である義理の父にレイプされて育った彼は、相応に、独り孤独な存在であり、心のどこかが「壊れている」と自覚しているが、同時にまた、孤高のプライドを誇り、相当に、強くタフで弾性のある(レジリエントな)精神の持ち主でもある。自分自身の部下以外の男には「誰にでも股を開く」が、つねに誰からも、自分自身からすらも、距離を取って俯瞰する視点を忘れず、「俺は、俺自身も傍観者にすることで 俺を保ってきた」と語る。プロの役者がそうするように、彼は自分が「自分自身に課した役を演じている」ことを意識している。そんな彼にも、かつて一度だけ、「人間」に惚れた経験がある。その相手は、たまたま男だったわけだが、高校時代から今に至るまで、彼の唯一の友人である、影山という男だった。この初恋は報われることはなかったので、矢代は、恋愛関係においては、まさに文字どおり、「100パーセント純粋な処女」である。誰かと相思相愛になった経験はなく、惚れた相手と寝たことも、かつて、ただの一度もない。

 

もうひとりの主人公は、百目鬼力(どうめき・ちから)という男で、25歳、元警察官だ。つい最近、刑務所から出所したばかりの人物である。父親が、養女、つまり百目鬼の義理の妹をレイプしているのを偶然目撃し、実の父親を殴り倒して半殺しにし、そのために傷害の罪で刑に服していた。ある日、矢代の一番の部下・七原が、190センチの長身で、腕っぷしがたち、筋骨逞しい百目鬼を、矢代の用心棒候補にうってつけだと考え、矢代の会社に連れてくる。

 

こうして、矢代と百目鬼のふたりは初めて出逢う。ふだんは用心深い矢代のはずが、意外にもすぐさま百目鬼を気に入って好意を感じる。「部下には手を出さない」という、矢代曰く彼の「唯一の秩序」でもあったはずのポリシーについて百目鬼に語りながらも、矢代はこの新参者への関心を抑えられず、百目鬼に彼に「シャクらせる」よう命じる。ところが、父親が妹を犯している現場を目撃して以来、性的に不能になっていた百目鬼のペニスは、反応を示さない。「インポです」と白状する百目鬼のセリフに驚きながらも、矢代は微笑み返し、百目鬼を自分の用心棒兼付き人として、「お試し」で雇うことに決める。それは、のちに矢代自身が語ることになるように、百目鬼が矢代の「好みど真ん中」のタイプの男、つまり、矢代が可愛がりたくなるような、どこか素直で朴訥とした男、正直かつ誠実で、ある意味とても「純粋無垢」な、稀有な存在だったからであり、同時にまた、百目鬼とだけは性行為に及ぶことが不可能だという事実が、矢代を「虚しくて、心地良い」気持ちにさせたからでもあった。他方で、百目鬼もまた、初めて道端に佇む矢代を目にしたとき、「綺麗な男(ひと)だと思った」ことを、のちに矢代に打ち明けることになる。そしてそれゆえに、ヤクザの経営する矢代の会社に、あえて雇われにきたわけだ。

 

物語が進むに連れて、だんだんと、ふたりは互いに、ますます魅力を感じるようになっていく。心理的にも物理的にも、ふたりのあいだの親密さは加速的に深まり、互いのあいだの距離感が狭まっていく。矢代はいっそう百目鬼を可愛いと感じるようになっていき、百目鬼は矢代を「強くて優しくて綺麗な人」だと語り、矢代を心から深く尊敬し、強く惹かれるようになっていく。しかし、その一方で、ふたりともに、決して互いに相手と「一線を越えない」ように努めようとする。百目鬼は、自分が矢代に対して深めている真剣な恋心と性的な欲望を矢代に気づかれたら、矢代は自分のことを、「いらなくなったオモチャと同じように」捨てるだろうと感じ、「ずっと(矢代の)側にいられるように」自分自身の恋慕と欲求をなんとか自制しようとする。とりわけ、いまや、矢代が直属の上司にあたる組長の平田に命を狙われているなかで、自分の「身体を張って」命を駆けて矢代を守れるようにと、百目鬼は必死だ(矢代が命を狙われるようになったのは、本家・道心会の執行役員で、最上級の勢力と影響力を持ち、まもなく次期会長になる可能性が高い幹部、三角が矢代を溺愛し、平田ではなく矢代をいずれ本家の若頭、自身の側近に任命したいと密かに画策しているためだ。こうしたヤクザ社会の多彩でリアリスティックなエピソードの数々も、主人公ふたりの恋愛心理の物語と併行して、きわめて複雑で丹念な和音を奏で、細部にわたり、作品全体を貫いて流れ響く)。他方で、矢代の百目鬼への思いはさらに入り組んでおり、相反する矛盾をはらんだものである。矢代は、百目鬼が「優しそうな普通のセックスをしそうだから」、百目鬼とはセックスしたくないと言う。物語が進展するに連れて、百目鬼を愛おしいと思う感情は強まっていき、ふたりの関係は、まるで、百目鬼が、矢代という主人、あるいは親鳥を慕うあまり、彼に一生懸命ついていく僕(しもべ)か雛鳥かのような様相をいっそう深めていく。矢代自身もそうした関係性のありように気づいているが、百目鬼に対する自分の気持ちが本当に意味する核心については、まだはっきりと自覚的に認識していないのだ。

 

平田との争いが激しさを増すなかで、ある日、矢代は、百目鬼が矢代に性的な欲情を感じていること、不能が癒えたことに気がつく。追い詰められ、百目鬼は、ついに、自分が矢代に「どうしようもなく惹かれてしまった」と告白する。それを聞いて、矢代の心はパニックに陥る。矢代は、そこで、自分も百目鬼に惚れてしまっていることを、ようやく明確に自覚するが、百目鬼の気持ちも自分自身の気持ちも、容易に受け入れることができない。そんなパニックの中で、矢代の本心が堰を切ったように溢れ出す。

「最初から手離さなきゃいけなかった

手離したかった

手離したくなかった

お前が可愛かった

お前が可愛い…

でも怖い

俺のために何でもするって言いながら

俺のせいで簡単に死にそうになる…っ

お前が俺をおかしくした

お前が怖いんじゃない

お前を失くせなくなる俺が…」*5

矢代の心の奥底から零れ落ちる、狂おしい叫びのような告白は続く。

「…お前を捨てたいのか

ヤリたいのか

虐めたいのか

怒りたいのか…

わかんねぇ

お前をどうしたらいいのか…

…お前を

どうにもできない」*6

そして、ふたりはついに一線を越え、愛し合う(メイクラブする)。けれども、矢代は、百目鬼の気持ちも自分の気持ちも、もしも自分が受け入れてしまったら、彼が幼い頃からずっと演じてきた、「どんな男にも悦んで犯され、痛みと快感を愉しむ、ド淫乱でマゾヒストな矢代像」という自己アイデンティティのありようを捨て去らねばならなくなることに気づく。「何の憂いもない 誰のせいにもしていない 俺の人生は誰かのせいであってはならない」と信じ、自分自身の崇高なプライドを守りながら、自分の人生で起きてきた諸々の出来事と折り合いをつけるための一種の自己防衛策として演じつづけてきた、セルフ・イメージを。2019年に収録されたあるインタビューの中で、著者は、本作、そして矢代という主人公の持つ、複雑で両義的(アンビヴァレント)な特質について、次のように語っていた。

「矢代にとって、百目鬼は唯一の綺麗な存在なんですよ。義理の父に性的虐待されてきた矢代の中には「性的なもの=汚い」という考えが潜在的にある。本人は自覚ないですが。だけど高校時代に影山と出会うことで、禁断の果実を食べてしまう。つまり、それまでは恋愛に対して無垢で来たのに、人を好きになって他者を認識することで「この気持ちが恋で、これが孤独。自分は孤独なんだ」と知る。」

(中略)

「そう、本当に汚いわけじゃないのに、そう思ってしまう。そんな矢代からすると、百目鬼に対しても、「あ、勃っちゃうんだお前」となる。矢代にとって、それは汚いものなんですよね。汚い自分に欲情するわけですから。」*7

そうして矢代は、百目鬼を、差し迫った危険な状況から遠ざけ守り、裏社会から堅気な世界へと戻そうという思いから、また、矢代自身が「自分がどういう人間であったのか、あるのか、今後なりえるのか」という問題と真っ向から対峙することも打開点を見出すこともなしえないことから、百目鬼を捨てることを決意する。情事のあとで眠っている百目鬼をアパートに残し、平田との抗争に決着をつけるために、ひとり出て行く矢代。その目論見はいったんは成功するが、目覚めた百目鬼は矢代の後を追ってきて、側を離れようとしない。矢代は百目鬼を油断させて彼の腰からピストルを奪い、その額に銃口を突きつけ、彼の脚に向かって銃を放ち、百目鬼が彼を追いかけられないようにして立ち去る。物語はひとつのクライマックスに近づいていき、平田とサシで対峙した矢代は、平田に殴られ、自分の人生が幕を閉じようとしていると感じる。矢代の内的なモノローグが流れる。

「壊さないと あいつは言った

もうとっくに 壊れていた

綺麗なものは汚したい

大事なものは傷つけたい

幸せなものは壊したい

擦り切れてく

生きることは

途方もない

ああこれで

ようやく 俺は

俺を終わらせることができる」*8

百目鬼が再び現れ、矢代に襲いかかる平田を引き剥がす。平田は百目鬼の胸を銃で撃ち、百目鬼は倒れる。矢代は地べたから石を拾い上げ、平田の頭を殴るが、平田が殴り返す。矢代は意識を失い、百目鬼の傍らに崩れ落ちる。そこに七原ら矢代の他の部下たちが駆けつけ、ふたりを救い出す。矢代と百目鬼は病院に運ばれ命を取り留め、平田は正式に新たな会長となった三角により処刑される。病院のベッドで目覚めた矢代は、頭を強く殴られたせいで、百目鬼のことを憶えていないと言い出す。あまりに明白で下手な嘘だ。けれども、百目鬼には、矢代のもとを去る以外の選択肢は残されていなかった。少なくとも今は——。

 

4年の歳月が流れる。今では、矢代は組を離れ、闇カジノのオーナー兼金主だ。百目鬼は別の組織の一家で、本物のヤクザになっていた。ある事件によって、ふたりは、偶然の力に引き寄せられ、再会を果たす。ふたりは、それぞれ、互いに対する自分の気持ちが変わっていないことを、自分なりに理解しているように見える。むしろ、いまや矢代のほうが、自分の中に百目鬼への想いが強く残っていることを認めざるをえない。一方、百目鬼は対照的に、今では成長し、自らの感情を、そしてある意味では、かつては「主人」であった矢代のことまでをも、あたかも制御しコントロールできるようになったかのようにすら見える。ふたりのあいだのパワー・バランスと緊張感は、ピンと張り詰めた細い糸の上で、まさに命がけの綱渡りが起こっているかのごとく、揺らいでいるように映る。そして、矢代が百目鬼を「捨てた」あと、この4年のあいだ、どれほどの苦しみと痛みを舐めてきたかが、明らかになってくる。生まれて初めて、誰かと互いに恋に落ち、愛を交わした体験が、どれほどの悦びと充足感をもたらすか——矢代が「禁断の智慧の実」を囓りその味を知ってしまったゆえの苦悩……。現在、日本語のオリジナル版の連載では、こうした地点まで物語は到達している。

 

 

 

 

 

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さて、長い作品紹介もようやく終わりだ。

ここからは、それではなぜ本作が、先述したふたつのベーシックでシンプルな理由に加えて、他のやおいやBL、あるいは他のあらゆるラブ・ロマンスのマンガ作品のなかでも、きわだって高い評価と絶大な支持を世界中の読者から勝ち得てきたのか、そしてまた、そもそも人はなぜ、ある種のやおいとBLを熱狂的に愛読するのか、物語とこれらの問いの分析・解釈に移ろう。

 

まず、本作『囀る鳥は羽ばたかない』、略して『囀る』は、端的に言って、人間の愛と性と関係性をめぐるきわめて「純粋」な物語であり、まさに「古典的(クラシカル)かつ正統的(オーセンティック)なまでに、ロマンチック」である。たとえば、主人公のふたりは、基本的に、ほとんど互いをひと目見ただけで、本能的(インスティンクティヴ)かつ直感的(インテュイティヴ)に、それが定められた宿命であるかのように、恋に落ち始める。こうした「運命がもたらす奇跡のような、半ば無意識的で強烈なひと目惚れの経験」は、それがフィクションの世界であれ私たちの現実の世界であれ、きわめて例外的で稀有な恋愛の出来事の経験においてしか起こりえない。

そしてまた、マンガであれ文学作品であれ、異性愛の物語であれ同性愛の物語であれ、往々にして、「古典的(クラシカル)」なロマンスがそうであるように、矢代も百目鬼も、きわめて「近代的(モダン)」な意味での「確固たる一個人(つまり、自律し独立した自我を持つ、唯一の特異的な存在としての「私」)」として、彼ら自身の究極の決断と彼らの人生に立ち現れる運命的な出来事の結果によって、避けがたく互いに深く恋に落ちてしまうのである。そして、「古典的」なやおい・BLの世界でしばしばそうであるように、百目鬼は、本質的には、異性愛者である。彼にとって、矢代だけが「例外」なのだ。矢代自身も、自分がいわゆる単純なホモセクシュアルであると見なすのを好まない。こうして、「クラシカル」なやおい・BLの名作の多くになぜか頻繁に見られてきたように、彼らにとっては、自分の恋い焦がれる「生涯の愛」の相手が、たまたま同性であるという事実は、強い恋愛感情と性的欲求の前に「乗り越え可能な」次元の問題となる。彼らは、ただひたすらに、相手に耐え難いほど惹きつけられ、恋に落ちていく。そこで重要になるのは、そのような、性的な所与を超えた「絶対的で究極的な愛の可能性とそのかたち」のみである。この意味で、BL、とりわけやおいの歴史的名作には、「一夫一婦制(モノガミー)」とも言うべき、きわめて「古典的で正統的な恋愛の物語」が多いが、『囀る』とその登場人物たちもまた、同様なのである。

 

しかし、それではなぜ、これほどまでに多くの、世界各地の女性たち(と、一部の男性たちとLGBTQの読者たち)は、『囀る』、さらには、やおい・BLという「男性同士の性と恋愛と関係性」の物語に強烈に惹きつけられ、そうした作品を読むという体験に、きわめて大きな歓びを感じてきたのだろうか? なぜ、『囀る』をはじめ、このジャンルのマンガや文学作品は、「男性同士の物語」でなければならないのだろうか?

 

簡潔に言ってしまえば、けっきょくのところ、私の目には、自分自身を含む他の女性の存在にいっさい「邪魔」されずに、「内面的にも、外面的にも、美しく、魅力的で、かっこいい(クールな)男を、憧憬し眺めていたい」「その男になって人生を、性愛を、体験してみたい」という、「原初的(プリモディアル)」とも言える願望や欲求を、相当数の女性が抱いているように映る。そこでは、彼女たちは、「第三者」あるいは「神」であるかのように、純然たる「見つめる主体」になりえると同時にまた、「究極の恋愛のありよう」をめぐる体験において、ふたりの男、あるいはそのいずれかに、心理的にも身体的にも、完全かつ無限大に、「共感(エンパサイズ)」し「同期(シンクロナイズ)」しつつ、「同一化(アイデンティファイ)」する自由をも手にすることができる。言い換えれば、「男たちの恋愛を見つめる営みに耽溺したい」、そして「彼ら、つまり矢代、そして/あるいは、百目鬼のようになって、矢代と/または百目鬼が、彼らの恋愛の行為で感じている、悦びや切なさ、痛みや苦しみまでをも、まさに身をもって、味わい堪能したい、彼らの恋愛の感情と感覚、思考と官能に、心身のすべてでもって浸りたい」という願望と欲求を、じつに多くの女性たちが共有しているように見えるのだ。登場人物たちが物語の中で行うように、「ひとりの魅力溢れる自由な男として、愛し愛されること」、そして「究極の恋愛物語の主体、そして、客体として、その生を生きること」を、きわめて多くの読者たちが渇望している。彼ら、ヘテロセクシュアルな女性や男性、LGBTQ の読者たちは、「男性同士の愛とセックスと関係性」を描いた、美的でエロティックな、甘くてほろ苦く(ビタースイートな)、心をひりつかせる切ない物語を読み、その物語の登場人物たちと「共鳴」し「同期」し、彼女たち/彼ら自身の願望を「表現(エクスプレス)」する行為を、自分たち自身の「純粋なファンタジーの王国」において、愉しんでいるように映る。そして『囀る』は、この種の同期と共鳴の体験を、とりわけ繊細かつ深く可能にするという意味においても、他のやおい・BL作品をはるかに凌駕しているがゆえに、多数の読者を強力に惹きつけることに成功し、稀有な傑作たりえている。

 

 

(少し話が逸れるが、大切な問題であるので、ここで念のために一点確認しておきたい。日本では、数十年来、とりわけ1990年代の「やおい論争」の時代以降、「やおい・BLは特定の女性向けのポルノである」という主旨の主張がしばしばなされてきた。しかし、この議論は往々にしてあまりに大雑把にすぎた。けっきょくのところ、「ポルノとなるか否か」の問題は、読者一人ひとりの都度の読書体験の質によって変わるものだ。ある人は、ある時は、ポルノグラフィックな妄想、あるいは官能的で肉感的(コーポリアル)な悦びを享受するために作品を味わい、またある人は、ある時、そうした即座的で臓器的(ヴィセラル)な体験の先にあるもの、つまり作品が提供する恋と愛と生の体験を堪能するために、読んでいると言うべきだろう。

この「ポルノ的ファンタジー消費か否か」の問題の背後には、「たんなるポルノグラフィーとしての物語の消費」と「官能的で肉感的な悦びを読書を通じて堪能する行為」を、乱暴かつ短絡的に同一視する因習が存在する。さらには、それは、「性行為の描写の有無、あるいは精緻さのレベル」によって、あたかも、リアリスティックかつ丹念に性行為が描かれた作品は、すべてが「官能小説ないしポルノグラフィー」の次元にとどまる、なにか「劣ったもの」であるかのように見做す因習的態度にも通ずる。この抑圧的傾向は、日本のやおい・BLコミックの世界にとどまらず、例えば、海外のゲイ小説、男性著者による男性同士の恋愛と性を扱った文学作品に対しても、しばしば横行しているように思える。一例を挙げれば、1970年代に一大ベストセラーとなったアメリカの小説家ゴードン・メリックによる古典的名作『神様は気になさらない(英題:The Lord Won’t Mind)』をはじめとする、いわゆる「ゲイ文学の第二世代による作品群」は、それらのうちの少なからぬ数の作品が、現実的で精緻な性行為の描写を含み、その歓びを高らかに謳った作品であったがゆえに、ゲイ文学の世界でもなぜか比較的「低俗な」作品であるかのように、まともな文芸作品として批評の対象となることが少ない。*9 日本のやおい・BL作品にせよ、世界の男性同性愛を描いた文学作品にせよ、恋愛を描くためには、「恋愛」というものが現実世界において、事実、「リアルな性行為を伴うもの」である以上、そのリアリスティックかつ精緻な描写を含む傾向が高くなるのは、いわば当然の帰結であり、そうした表現を短絡的に軽視あるいは蔑視する態度は、ただの「非現実主義」にすぎない、と私には思える)。

 

さて、脱線が長くなったが、分析と解釈の本筋に戻ろう。

 

なによりも重要なことは、『囀る』をはじめ、やおい・BL マンガ・文学の傑作の多くは、たんなる「男性同士の恋愛の物語」ではない、ということである。むしろ、それらは 「究極の恋愛と人間の生き方の様式、それらの選択をめぐる物語」なのだ。トルストイの『アンナ・カレーニナ』やプルーストの『失われた時を求めて』、モームの『お菓子とビール』など、あまたある文学作品の歴史においてもとりわけ卓越した愛の物語の多くにおいて、登場人物たちが、彼らの愛の経験を通じて、自らの人生、その細部と全容を、いかに生きていくべきかの問いに対峙せざるをえなくなるのと同様に、やおい・BLマンガ・文学の名作の多くでは、「究極的な恋愛」を花開かせ実をなすために、登場人物たちは、必然的に、自分は何者で、いかに自らの生を生きていきたいのかという「生の様式の選択」を迫られるようになるのである。その意味で、日本のやおい・BLの名作の多くは、たんなる恋愛と性愛の物語というよりも、むしろ、登場人物たちが心理的・倫理的に成長していく「ビルドゥングスロマン(教養小説)」、より適切には「ライフングスロマン」、つまり「成熟物語」とも言うべき作品群である。彼らが自分自身の真の姿と向き合い、成熟していく過程を通じて、彼らなりの究極の恋愛や生き方、存在のあり方を選択し、開花させ、(あるいは、確かに、最終的に実を結ばない恋や悲劇に終わる物語もあるにしても、その過程自体を相応に)謳歌していく物語なのである。

 

自らのセクシュアリティと恋愛・性愛の問題が、自身の人生の生き方の問題と不可分である事態、そうした愛の論理と倫理をめぐる問いかけ、あるいはまた、そんな愛が創り出すであろう、お互いを思いやり永遠に進化しつづける関係性における、無限で自由な可能性への挑戦——こうした、ある種のやおい・BL作品が追い求めてきた理想郷のイメージには、どこか、思想家のミシェル・フーコーが、とりわけ彼の最晩年の仕事で深く追求した思想的課題のひとつである、「生の様式としての友情(/友愛;l' amitié comme mode de vie)」の問題と、共通する要素が多数見受けられるように思える。フーコーは、「『ゲイ』であること、それは」その人が「生成過程にあるということ」、つまり、自己を構築するプロセスのさなかにあることを意味すると語った。何者にもなりうる可能性が開かれているがゆえにこそ、人は、「おのれの性(セクシュアリテ)を用い」て、他者との「新たな関係」のかたちを「発見、あるいは、発明」すべきなのだ、と論じていた。彼はこのように語っている。

「私は「懸命に『ゲイ』にならなければならない」と言いたかったのです。おのれの性の選択が現存しているような次元、それが生全体に影響を及ぼすような次元に身を置くべきだと。また、こうした性の選択は、同時に、創造的な生き方の様式をつくりだすこととなるべきだと。『ゲイ』であることは、これらの選択が人生全体に拡散することを意味し、それは、既存の生の様式を拒否するある種の流儀であり、性的選択を生存の変革の操作子(オペレーター)とすることでもあるのです。(中略)

新たな関係を発見し、発明するために、おのれの性(セクシュアリテ)を用いるべきだと、私は言いたい。『ゲイ』であること、それは、生成過程にあるということであり、さらに、(中略)同性愛者になるべきなのではなく、しかし懸命に『ゲイ』になるべきなのだと付け加えましょう。」*10

 

「憶えている限り、少年の欲求(アンヴィ)は常に少年たちと諸々の関係を持つことの欲求(アンヴィ)でした。関係は私にとって常に重要なことだったのです。必ずしもカップルの形を取った関係ではなく、生存の問いとして。すなわち、男たちにとって共にあるということはいかにして可能なのか? 共に生き、時間を、食事を、寝室を、余暇を、悲しみを、知を、秘密を分かち合うことはいかに可能なのか? 家族、職業、強制された仲間関係といった制度的な関係の外で、「ありのままの」男同士でいるとは何なのだろうか?という問いとして。(中略)

彼らは、いまだ形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情(/友愛)なのです。言いかえるならば、互いに相手を歓ばせることができる一切の事柄の総和なのです。」*11

換言すれば、人は、ある意味、『ゲイ』となることを通じて、自身の選択により、自分自身を、そして自分の人生を、生き方の様式を、創造するための、多様な可能性に開かれることができるのである。これらフーコーの言葉に表明されていることとは、性差(ジェンダー)という与件であろうと、さまざまな社会とその歴史における抑圧的な規範や因習(例えば、男らしさと女らしさ、結婚・生殖・家族に関する概念など)であろうとも、そうした臨界点を超えて、既存の社会的、文化的、政治的、性的な「制度」の外側で、人は自らをかたちづくることが可能なのだという「信念」(フーコー流に言えば、「真理」の存在への信念)とも言えるだろう。

 

そうした「生き方の選択」を行うことによって、つまり、自らの人生をいかに十全に生きるか、いかに他者を恋し愛するかという問題に対して、自らの態度を選択することを通じて、人は、運命や偶然の力がどう作用しようとも、完全に「自らの意志と決断」によって、他者を恋し愛することができるようになるのである。そこでは、人は、自分自身と愛する対象と、両者へ十分な心遣いと歓びを与えつつ、「互いの関係を築きつづける」ために、「おのれも成長しつづけなければならない」のである。けっきょくのところ、こうした思想の問いと、『囀る』、そしてやおい・BLコミック・文学の名作の多くが目指してきた、究極の恋愛と生き方をめぐる模索や理想の様式への憧憬との距離は、とても近しいのだと言えるのである。

 

この一連の思考は、なぜ、ある種のやおい・BL作品が、この数十年ものあいだ、国内外、世界中で、これほどまでに多くの読者の心を掴んできたのかを理解するうえで、きわめて重要な意味を持っている。このジャンルのなかでも突出した傑作が、読者に、どのような思考や感情、価値基準の例証を提供しうるかを示す「典型的」な一例が、『囀る』なのである。例えば、著者のヨネダコウは、2014年のインタビューで、自身の作品が、『JUNE』(1978年から1996年まで刊行されていた、日本の先駆的な少年愛・耽美・やおい・BLコミック、文学、カルチャー専門誌だった、『JUNE』と『小説JUNE Novels』の総称)の世界と似た特徴を持ち、「だから「JUNEだよね」って言ってます。特にもう『囀る鳥は羽ばたかない』なんてド真ん中ですね。」と語っていた。*12 この分析は、いくつかの「古典的」なやおい・BL作品が、事実、ひじょうに興味深いことに、驚くほど、ある種の「意識のありよう」を共有していたことを彷彿とさせる。その「意識のありよう」とは、これまで論じてきたような、究極の恋愛や関係性と生き方をめぐるロジックとプロセス、時に多くの試行錯誤や挫折も含めて、そのさまざまな模索の試みと到達点、あるいはそこで「生きられる」多様な「理想形」の総体である。この「意識のありよう」を抜きにしては、『囀る』、そして日本のやおい・BL作品の一部の名作の多くが、いかに、読者に対して、男性同士の甘くほろ苦く切ない「真の恋愛の体験」に共鳴し同期する貴重な機会を提供してきたか、その目指してきた地平の彼方にあるものとはなんだったのかを理解するのは困難だとすら思える。

 

もちろん、私たちは知っている。現実は、往々にして、ファンタジーほど、良くはなく、長続きすることも容易ではない、と。それは、しばしば、私たちが、私たち自身の愛、性、欲望、生き方を、どのようにかたちづくって生きていきたいのかという願望を、拒むかのように働く。しかし、そうと知りながらも、それでもなお、私たち、多くの女性たちは、そしておそらく男性たちや性的マイノリティの読者たちも、みな等しく、「究極の恋愛とセックスと関係性、そして自分自身の生き方の様式の選択」への憧憬と探求を諦めることができないのだろう。いつの日か、私たち自身が生きている現実の人生の中でも、自分なりの「生き方、恋愛、性、関係性の理想形」を「発見、あるいは、発明」したいという希望を抱きつつ、生きていく。それ以外に、すべはないのだろう、きっと——。

*1……

これらの短編作品および本作の初出は以下のとおり。

ヨネダコウ「Don't stay gold」『drap』2008年5月号、コアマガジン:東京刊

ヨネダコウ「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」『HertZ』band.32、2009年6月刊、大洋図書:東京刊

ヨネダコウ「囀る鳥は羽ばたかない」『HertZ』band.45〜、2011年8月刊〜、大洋図書:東京刊

 

*2……

データは以下を参照。

https://www.pashplus.jp/anime/184373/

 

*3……

データは以下を参照。

https://www.chil-chil.net/blAwardBackNumber/

 

*4……

本作からの引用部分は以下の日本語版既刊および連載誌を参照。ただし、本稿に登場する「」内の部分は、原文からの引用に限らず、本稿執筆のための筆者による強調・要約などの表現も含む。

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』第1巻〜第7巻、2013年1月刊〜、大洋図書:東京刊

ヨネダコウ「囀る鳥は羽ばたかない」『HertZ』『ihr HertZ』、2011年8月刊〜連載中、大洋図書:東京刊

なお、本稿のもととして執筆した英語版 ”On Twittering Birds Never Fly : Analysing the Narratives of Love, Sex, Relationship, and Ways of Life in the Work, and in Japanese Yaoi and BL “Love Between Males” Comics” における本作からの引用部分の多くは、筆者が日本語版オリジナルより新たに英訳した。一般に、日本のマンガ作品の英訳は、文学作品の英訳と比べ、いまだはるかに質が低く、本作も残念ながら同様に、公式英語版に誤訳・雜訳が多数散見されるため。英語をはじめとする外国語へのマンガ翻訳の質的向上は、世界的に出版業界が対処せねばならない、深刻な急務であると言えよう。

*5……

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』第5巻、2017年、大洋図書:東京刊

 

*6……

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』第5巻、2017年、大洋図書:東京刊

 

*7……

「ヨネダコウ Interview」インタビュー・構成=的場容子『2020年度版 このBLがやばい!』ネクストF編集部編、JIVE:東京刊、38頁

 

*8……

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』第6巻、2019年、大洋図書:東京刊

 

*9……

ゴードン・メリック『愛の叫び—「神様は気になさらない」改題』栗原知代訳、1992年、白夜書房:東京刊。Gordon Merrick, The Lord Won’t Mind, 1970. (原語版初版版元不詳。現在は、本作の続編2作とともに、Open Road Media: New Yorkより刊行)。本作は同訳者によって和訳され、1985年から86年にかけて、隔月刊誌『JUNE』に連載され当時大きな好評を博した。その文学史上における位置づけと作品の簡単な概要は同書収録の訳者あとがきも参照。

 

*10……

注10と注11のフーコーの発言は、増田一夫氏による美しい和訳をもとに、フランス語原文および英語訳文を参照しつつ、『ゲイ』を括弧でくくって表記するなどの修正を加え、原文の意図にできる限り忠実になるよう必要最低限の改変を施した。

ミシェル・フーコー「同性愛の問題化の歴史」ミシェル・フーコー著、増田一夫訳『同性愛と生存の美学』1987年、哲学書房:東京刊、41〜42頁

“Entretien avec Michel Foucault: L'homosexualité dans l'antiquité”, Masques, No 13, Mars 1982

Michel Foucault, "History and Homosexuality", interview conducted by J.P. Joecker, M. Ouerd and A. Sanzio. Translated by John Johnston.; Reprinted in Michel Foucault, Foucault Live: Collecte Interviews, 1961-1984, Edited by Sylvère Lotringer, Semiotext[e]:New York, 1989, pp.369-370.

 

*11……

ミシェル・フーコー「生の様式としての友情について」ミシェル・フーコー著、増田一夫訳、前掲書、10〜11頁

“De l'amitié comme mode de vie: Entretien avec Michel Foucault”, Le Gai Pied, 25, April 1981.

Michel Foucault, "Friendship as a Way of Life", an interview conducted by René de Coccatty, Jean Danet and Jean Le Bitoux, Translated by John Johnston.; Reprinted in, ibid, pp. 309.

 

*12……

「Interview 2 ヨネダコウ」聞き手=川原和子『美術手帖/BT』2014年12月号、美術出版社:東京刊、33頁

2022年正月〜春に執筆

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