ロニ・ホーン/ニコラ・タイソン/カラ・ウォーカー/コリア・ショア
——セクシュアリティとジェンダー
ロニ・ホーン
1975年以来、繰り返しアイスランドを訪れているホーン。溶岩や鉱泉、荒涼とした孤独な風景を題材に、写真、ドローイング、タイポグラフィなどさまざまなメディアをとおして、その土地と交感する「私」を巡る「内的な地理学」を呈示している。彼女の作品は性「について」の物語ではない。むしろその中性的なありようでもって、性「を巡る」物語を迂回する。100枚のゼラティン・シルヴァー・プリントとタイプCプリントからなる近作《You are the Weather(あなたは天気)」》(1994-96)について、ホーンはつぎのように語る。
「(これらの)写真にはエロティックな鋭さがあるけれど、(見る者がそこに写された)この女性とどれだけともに時を過ごそうと、けっして彼女により近づいてゆくことはできない。彼女は変容し、異なった人格を表出させる。……彼女は事物の多様性、そのすべてなのです。こうした変容、感情の幅、つまり彼女は苛立っているようにも怒っているようにも見えるわけですが、それはじつのところ天候によって引き起こされており、彼女の瞳に映る日の光であったり、吹雪や風の流れであったりするのです。彼女とともに(ギャラリー)の部屋の中に佇んでいると、まるで(彼女を見つめている)あなたがそのような反応を誘い出しているかのようです。あなた自身が「天候」となる。私にとってこの作品はある「性を欠いた(ジェンダーレスな)」ありようにおいて、エロティックな深みをもつのです。」*1
*1……
Roni Horn; in Collier Schorr, "Weather Girls, frieze, Jan-Feb 1997, p.43.
Roni Horn
1955年ニューヨーク生まれ。同地在住。コンセプチュアル・アートの方法論を用い、おもに、文字が刷り込まれたような複数のブロックを空間に配置することで、文字=記号とその意味、 そして形態と文字などさまざまな関係性を、最小限の要素に抑えつつ、散文詩のように組み合わせて、 詩的な空間をつくりだす。手書きの文字によるドローイングなども手がけ、書籍のかたちで出版もしている。
ニコラ・タイソン
不格好に膨れ上がった尻、胎児が潜んでいるかのような腹部、奇妙な植物のように歪曲する前肢、肥大した風船のような真白い頭部、空想の動物から借りてきたような耳、昆虫の触角のようにも芽生えつつあるペニスのようにもとれる突起物、すべてを支えて軽やかに均衡を保つ両脚——タイソンの描く変形する肉体はどこか神経症的でエロティック、つるりと滑らかで、不思議に軽い。彼/彼女ら(あるいはその双方である両性の生きもの)の多くは閉ざされた空間にひとり隔離されており、プライヴェートな寸劇をただ自身のために演じる自己充足的な玩具(おもちゃ)の人形のようだ。作品のなかには回想を通じてのセルフ・ポートレイトといった自叙伝的(オートバイオグラフィカル)な要素を含むものも数少なくない。分裂した半身としての人物(フィギュア)たち——しかし、その一方で、彼/彼女たちは内的な距離感を露わにする。顔は塗りつぶされ匿名性を帯び、肉体を覆う鮮やかでフラットな色彩は変幻するファンタスマゴリカルな衣装のように表層的だ。気ままに宙を浮遊する肛門ともヴァギナともつかない空虚に穿たれた真白い穴が、重さを逃れ空気のように醒めたリビドーの通過口を仄めかす。
Nicola Tyson
1960年ロンドン生まれ。同地でチェルシー美術学校およびセント・マーティンズ・カレッジ・オブ・アートで学ぶ。91年からニューヨークに拠点を移し、制作活動のかたわら女性アーティスト専用のオルタナティヴ・スペース 「トライアル・バルーン」を運営、 ヘテロセクシュアル、レズビアンのアーティストの多くがそこで発表の機会を得た。
カラ・ウォーカー
「ポストモダン理論に負うところの多いアーティストたちと違い、ウォーカーは歴史の書き直しをではなく、ファンタジーをかい潜ることによって歴史を記憶しようとしているのだ。その試みが想起させうるあらゆる主観性を抱きかかえながら。」*1
ウォーカーの語るアフロ=アメリカンのアイデンティティを巡る物語は、“征服/服従”といった単純な二項対立の図式をノスタルジーの範疇へと追いやり頓挫させてしまう。南北戦争や大河ロマン、黒人奴隷にまつわる伝承——19世紀南部プランテーションのイコノグラフィを援用しつつ、ウォーカーは「ステレオタイプ化された歴史」というフィクションの影絵、フィクションを裏側から照射し返しさらに自在な空想の連鎖を呼び起こす物語を織り上げてゆく。その黒い切り貼られたイメージは「ある人物の横顔(プロフィール)、斜に構えた眼差しとしての横顔」であり、斜に構えた眼差しとは黒人女(ニグレス)という「信用のおけない女の投げかける眼差し」「疑惑と潜在的な悪意、あるいは欲望に満ちた」眼差しである。*2 排泄、虐待、性交といったサド的モティーフをエンドレスに描き連ねるプロフィール群。人種・性暴力のパワー・ストラクチャーを見つめる多層的な眼差しが互いを照らし合う。
*1……
Christian Haye, "Strange Fruit”, frieze, Sept-Oct 1996, p.59.
*2……
Kara Walker; in Jerry Saltz, “Kara Walker: Ill-will and Desire”, Flash Art, November-December 1996, p.82.
Kara Walker
1969年カリフォルニア州ストックトン生まれ。アトランタ美術学校およびロードアイランドデザイン学校で絵画と版画を学ぶ。90年代に入って活動を開始する。黒人女性アーティストとして数多くの展覧会に参加しているが、個展での作品発表は95年以降に本格化。1997年のホイットニー・バイエニアルの出品作家にも選ばれた。プロヴィデンス在住。
コリア・ショア
「……なにかを調べ吟味するということは、あなたの『自己』と吟味されているもののあいだにある距離を築くということだ」
——ウォルター・エイビッシュ*1
ショアの仕事に触れるたび、思い起こすのは鏡張りの迷路小屋——幾重にも反響し合う自分自身の姿に取り囲まれたときの、あの眩暈。「いったいどれが本当の私なのだろうか?」——すべてが“私”のように馴染み深く、そして、"私ではないだれか“のように遠い。交じり合う親密さと異質性にせめぎたてられ、もはや問題は”本当の私”などではなくなってしまっていることに気づく。——「いったい私がこうまでも“ひとつになりたい”存在とはだれなのだろうか?」
同一化(アイデンティフィケーション)のイリュージョン(幻想)は、果たして関係性を巡る欲望と期待の射程内にしかない。たとえば《スイッチ(交換) 》(1995-96)と題されたひと組の写真。ひとつは“女の"口紅に彩られた少年の顔のクロースアップ。うっすらと筋肉をたくわえつつある思春期の身体が、彼が大人の男性へと成長する通過段階にまさにいま足を踏み込みつつあるいまだ不定形な存在であることを伝える。もう一枚は“男の"下着を身に付け股に腕をつっこみ草叢にしゃがみこむショア自身。彼女の中性的な風貌と樹の枝に遮られた胸元、あるいは少年のもつ性的な曖昧さから、一見するとこの一組の写真はあるひとりの人物のポートレイトであるかのような錯覚を受ける。彼らは“欲し求められるべき"魅力をもった"私/だれか"の欲望の対象であり、また、「“ひとつになりたい” という私の期待を駆り立てるだれか」として“私”を映し出す影なのだ。しかし、”欲し、欲される私“の影を垣間見ることは、おそらく同一化が遂に幻想の領域に留まる限りにおいてのみ可能なのだ。ショアをショア自身から隔てる距離、ショアと彼女が/を見つめるものとの距離が維持される限りにおいて。
*1……
Walter Abish. As quoted by Collier Shorr in “How Familiar Is It?", Parkett, 44, 1995, p.83.
Collier Schorr
1963年ニューヨーク生まれ。同地在住。1986年ニューヨーク・スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ卒。88年頃から本格的に活動を開始。写真作品制作と併行して、『frieze』『Parkett』などにアート批評を寄稿し、現在、『frieze』誌U.S.エディターも務める。ファッション写真撮影も手がけている。
初出=『美術手帖/BT』1997年6月号、美術出版社:東京