曖昧さのポリティクス
——ハイレッド・センター《シェルター・プラン》
——東京、1964
「俺達は現在空白に向かっているんじゃないか、空白にむかいつつあるっていう。だから自分が作り出す空白につつまれて、空白になってしまうか自分も。」
——ウロボンK.、1963年1月*1
ⅰ
「曖昧さの政治学(ポリティクス)」——この言葉こそ、 ハイレッド・センターとは何だったのかという問いの核心へとわれわれを導く鍵だ。1963年5月の結成から翌64年12月に「グループ」としての機能を終えるまで、ハイレッド・センターは曖昧さの領域に——「芸術」と「芸術ではない何か」、 あるいは「個別性」と「匿名性」の狭間に——自身を見出そうとしつづけたのだ。
「ハイレッド・センター」とは、その「発起人」となった3人のアーティストの名字の一部を米語に訳し、組み合わせた名称(高松次郎[High]、赤瀬川原平[Red]、 中西夏之[Center])だった。のちに、第4の「構成員」として、和泉達が加わったほか、いくつかのハプニングやイベントの際には、彼らの周辺にいたアーティスト、友人らも「メンバー」として参加しており、それによって、この「コレクティヴ(共同体)/グループ(集団)」は、ひじょうに不定形でつねに流動する「組織」でありつづけた。
社会における生(せい)のアクチュアリティの中へ浸透していこうとする抑えがたい渇望に捕えられ、3人の「アーティスト/センターの創始者たち」は絵筆を置いて、オブジェをストリートに連れ出した。それ以降は、電車が、駅が、ホテルやビルの一室が、つまりは東京という都市そのものこそが、彼らのキャンヴァスとなっていった。公衆を「攪拌」し「純粋な対話」を発生させる契機をつくりだそうと、スキャンダラスなデモンストレーションを企て、オブジェやテキストを拡散させようと試みる。それは、オリジナリティの源として絶対化された「個」の神話に挑みつつ、「芸術家」という自身に与えられたアイデンティティをもう一度定義し直すための、あるひとつの賭けであったように思われる。そして結論から言ってしまえば、この極端なまでのラディカリズムは、ハイレッドをして、ついには、道路を清掃する行為さえも「芸術」であり、この地球上で起きるいかなる出来事も「ハイレッド・センター」に起因する現象なのだ、換言すれば、「ハイレッド・センター」とは、究極的には、ある想像上の、不定形で流動的な「組織/共同体」を構成する、あらゆる存在を包括した総称である、と結論づけるところまで導いていく。それは、芸術が、その無限大の自己膨張の避けがたい帰結として、自身の死に直面せざるをえなかった瞬間でもあったのだ。
それでも、いま一度、問い直してみよう。もしもハイレッド・センターによって遂行された「芸術の破壊」を「芸術行為」と呼びえないとすれば、それはいったい何であったのだろうか、と。この問いかけの意義は、ハイレッド自身の中に内包されていたパラドックスの種を見極めることなしには、十全に把握されることはできない。つまり、一方でハイレッド・センターとは3人のアーティストにより分かち持たれた共通の関心事——匿名性への憧憬、あるいは、ただひとりの創造主としての「芸術家/個人」たることを放棄したのちに生まれてくるであろう未知の可能性への期待——により、偶然にも生み出されてしまった「共同体」であった。しかし同時に他方では、(彼ら生みの親たちが幾度となく繰り返し強調することとなるように)、それは、3つの「ハイ(高松)」、「レッド(赤瀬川)」、「センター(中西)」という「点」により形成された三角形の空間に住まう「ある虚構の存在」であったのだ。この自己定義こそ、集団としてのイデオロギーの発生するあらゆる可能性から身をかわす武器であり、おのおのの「構成員」の個別性を守り、彼らを規定するある特定の権力機構、「制度」の成立を無効化するためのフレームワークとして機能することになる。こうしてハイレッド・センターは、アノニミティとインディヴィジュアリティの共存するパラドキシカルな土台の上に、その短い活動を展開していく。
まさに、このパラドックスに満ちた「曖昧さの力学(ダイナミクス)」においてこそ、ハイレッド・センターは、ある時代を象徴する存在であったように思われる。1960年代初頭の日本は「政治の季節」から「経済の季節」へと移り行く動乱期にあった。戦時中より1950年代末までつねに時代の通奏低音のように流れていた政治的コミットメントを巡る論争は、共産党を主導とする「旧左翼」への幻滅感の広まり、そして1960年の日米安保条約改定時における全国民的規模での闘争の挫折を経たいま、すでに旧時代的なものとなりつつあった。*2 このような社会的文脈の中においては、ソーシャルなコミットメントに対する芸術家たちの夢も、「人道主義的具象」「社会主義リアリズム」「ルポルタージュ・ペインティング」などといった既存の動きへの不満の募るなか、新たな突破口を見出しえずに、混迷の中へとその身を埋めてゆきつつあった。*3 それと並行し、他方では、日本経済が敗戦の荒廃から急速に復興していくさまを目のあたりにした人々の心の中では、日々、来たるべき新たな時代への期待は、否応なく高まってきてもいた。1960年、日本のGNPは43兆ドルで世界第5位にランクされた。池田内閣は「所得倍増計画」を発表。結果は政府の期待をはるかに上回り、1969年にはGNPは165.9兆ドル、世界第2位へと飛躍することになる。抑圧的な戦時体制の崩壊とともに、占領軍によって導入されたアメリカ流の「豊かさとデモクラシー」の神話に刺激され、留まるところを知らぬ自由への渇望が溢れ出す。こうして日本社会全体が、1956年に経済企画庁が「もはや戦後ではない」と謳うのを待ち構えていたかのように、その後、70年代初期まで続く高度経済成長の渦の中へと呑み込まれていく。
美術界もまた例外ではなかった。まずは関西の「具体」や「九州派」をはじめとする地方勢の活動、ついでは1956年に始まるフランス発の同時代のアート動向であった「アンフォルメル」の紹介に触発された、日本全土の若い世代の芸術家たちの活動の中で、新しい時代の表現を求めるエネルギーは急速に膨張してきていた。そしてこれはまた、新しいインターナショナリズムの時代の幕開けをも意味していた。敗戦後、初めて国際的な政治・経済の舞台へ本格的復帰を果たす「世界の中の日本」という夢が、1964年の東京オリンピックを目前にして加速的に高まっていく頃、美術雑誌や展覧会を通じて、若手評論家たちは欧米の最新動向をつぎつぎと紹介しはじめ、美術家、音楽家のなかには、まったく独自に、あるいはジョン・ケージらの仕事に刺激され、「ハプニング」の先駆ともいえるような実験的仕事を展開するものも出てくる。
このような間断ない変貌をつねに根本から支えていたもの、それはなによりもまず、名もない群衆の生み出すダイナミズム——9000万余の人口、それもその大半が「中流階級」に所属しているという共通意識で結ばれている巨大なマスを抱える国にあっては、決して無視することのできない、ある種のパワーであったように思われる。政治の舞台においては、政党、あるいは「エリート」主導による運動への幻滅感が広がっていくなか、マスは街頭に頻発する抗議デモをとおして、そのダイレクトな行動力を見せつけていく。知識人たちは既存の左派勢力に裏切られた革新への夢が実現する兆しを見出したかのように、こぞってこの群衆の持つポテンシャリティを讃えだす。そしてまた、経済成長という観点からしても、マスを焦点に据えた消費社会の組織化は戦後資本主義体制のさらなる体系化に不可欠であった。
東京——1962年には世界初の1000万人都市となったこの首都——とは、膨らみつづける時代の原動力を吸い込み、吐き出す中心円ではなかったか。ハイレッド・センターは、突如、この巨大なメトロポリスに、半ば偶然の産物として出現し、変貌する時代の空気を糧に、「芸術」という概念の発生する原点まで遡っていく。それは、どこまで詐欺師のようないかがわしさとアナーキストのような純粋さでもって、イデオロギーの罠を足軽にかわしながらも自己自身たりうるかという問いの実践であり、「直接民主制」というユートピアのヴィジョンが、目覚ましい勢いで変わりゆく芸術制作の現実と交錯した、ある「瞬間」であったのだ。*4 この「瞬間」が、歴史の持つ流動性の中から「現在」へと再び立ち戻って来るのを、われわれは目撃しうるだろうか。以下、彼らの仕事の中から、ひとつのプロジェクト《シェルター・プラン》を取り上げ、この課題を実践してみよう。
ⅱ
《シェルター・プラン》は、1964年1月26、27日の2日間にわたり、東京・銀座の帝国ホテルを舞台に決行された。このハプニングは、まず、招待状の発布から始まる。差出人は「シェルター・プラン・コンファレンス1964年度担当者」を名乗る「私、ハイレッド・センター」、受け取ったのは「協力者」として「彼(彼女?)」に選ばれたアーティスト、ジャーナリストほか、電話帳から任意に拾い出された私立探偵、土地斡旋業者、職業紹介所に勤務する人々などだった。*5
「前略 ハイレッド・センターは、S・P・C(シェルター・プラン・コンフアレンス)の依嘱により、シェルター計画を担当することになりました。私、ハイレッド・ センターは、来る1月26日、27日の両日日比谷帝国ホテル本館に滞在し、皆様に応対致します。これ迄ハイレッド通信は一般の方々に無制限にお送りしてまいりましたが、今回に限り部数を限定し、S・P・Cに於て人選を行い、特に貴方が選ばれ、シェルター・プランのお知らせに変えさせていただく次第でございます。貴方がその御一人として御来臨下さる事を私は心から希望致します。御協力された皆様のプラン資料及び結果は、4ヵ月以内にそれぞれS・P・Cによって発表されます。突然の事でもあり、分かり難い点もあると思いますが、御来臨の際、S・P・C及びシェルター・プランに関して詳しく申し上げたいと存じます。」*6
手の込んだ悪戯? 人を喰った悪ふざけ? そうかもしれない。文体が「真っ当な」ビジネスレターの形式を模しているため、かえって怪しんでしまう。しかも結局のところ、「シェルター計画」とは何なのか、なぜどのような目的で「協力」を要請されているのか、いったいホテルで何が待ち受けているのかといった肝心の内容は、不自然なほど伝えられていないことに気がつく。それらは、格式ばった空虚な常套句の羅列によって、慎重に排除されている。同封された「覚え書」も見てみよう。
「来観者の心得(勝手ながら御来臨の際は次の要領でお願い致します)
◎ホテルは、旧館正面より入り受付でご案内致します
◎御来臨の際は電話をお願い致します(又 万一御都合の悪い時も電話をお願いしたいと思います)
◎ネクタイを着用していただきます
◎手袋を着用いたしますとなにかとよいと存じます
◎どんなものでもかまいませんが袋を御持参願います」*7
言い回しは至極丁寧なものだが惑わされてはいけない。与えられているのは疑問に対する答えなどではない。これは一方的に取り決められた「ルール」だ。 つまりは、手紙を受け取った時点で、われわれはもうこの「ゲーム」に参加させられているらしい。しかもそれは、作法と段取りを重んじる「セレモニーとしてのゲーム」だ。これに加え、当日、実際、ホテルを訪れた者は、ロビーでさらにもう一枚、奇妙なインストラクションを受け取らされた。
「御多忙の折よおこそお越し下さいました これより、シェルター・プランについて協力して頂くのですが、その前に一寸
◎ドアのノブに指紋を残さぬよう
◎赤いスーツの婦人の背後二mの距離より、彼女の輪郭を両手で型どりながら撫ぜてみて下さい
◎ロビーのソファーに腰掛け隣接する人の呼吸を観察して下さい リズムが読めましたら相手が吐く時、あなたは吸い、あなたが吐く息を吸って頂くようひそかに試みてみましょう
さて、ご覧にいれたいシェルター見本は各種とりそろえております 詳しくはハイ-レッドセンターの旧館340号室にどうぞ 尚入室の際は、パスとして千円札一枚ご提示頂きます」*8
こうして訪問者たちは、訳のわからない、延々と続く、まわりくどい準備段階を経て初めて、問題のスイートルームへと辿り着く。そこで彼らはようやく、慇懃無礼でありながら有無を言わせぬ強引な手筈のもとに、おのおの、身体的特徴を調査され、彼ら専用の核シェルターを注文させられようとしていることに気づくこととなる。ドア係の赤瀬川が人々を招き入れ、受付では高松が彼らの氏名、住所、性別などの基本事項を質問し、一人ひとりの指紋を採る。その横で、赤瀬川と和泉が、来参者の身長、体重、肩幅、顔の長さ、顔の幅などを測定し、カルテに書き込んでいく。ほとんど無意味と思われるような情報である口腔含水量や身体の体積 (希望者のみ)まで、わざわざ彼らの口に水を含ませたり、服を脱がせてバスタブの中に入らせたりの労を厭わず測ったりもする。それが終わると来館者は正面向き、背面、両サイド、頭のてっぺんおよびその逆に靴底から、文字どおり、全身の写真を、6方向から撮影される(記録写真に残された模型を見るとわかるように、これらの写真が、箱型のシェルターの各側面に貼られることになっていたわけだ)。隣室では、中西が、訪問客たちから専用シェルターの注文を受けようと待ち構えており、彼の背後では男女ふたりの「秘書」が商談の成り行きを見守っている。取り引きが終了すると、「秘書」が過剰なまでの心配りで報いるかのように、彼らの背から塵をブラシで払い落とし、「次の部屋」——というのは、じつのところ、ホテルの廊下なのだが——へと導く。これで「ジ・エンド」というわけだ。
このハプニングを再考していくにあたって着目してもらいたいのは、それが、社会的制度という「外的な」システムの内に潜在する「力」の構造と、その構成単位である「個」としてのわれわれ自身の持つ「内的なメカニズム」とがいかにして結びついているか、そしてまた個々の「肉体」の合間に生まれるアクチュアルな関係性は、はたして全体性の中に一元的に還元されてゆくのか、という問いをめぐる状況自体を、多層的に呈示していることにある。そして、われわれ自身、記録を辿って見ていくことを通じて、ひとつのナラティヴが他のナラティヴと交錯し合う多元的な空間の中に位置づけられていく。
ⅲ
順を追って見ていこう。まず第一に、このハプニングが、「日本のマス・キャピタリスト社会に潜む機械的な陳腐さに満ちた日常性、暗々裏の権威主義への批判」を突きつけてくるというアレキサンドラ・マンローの指摘は妥当なものと思われる。*9 この点で、帝国ホテルがハプニングの場として選ばれたことは、重要な意義を持っているが、赤瀬川はのちにロケーションについて、以下のようにコメントしている。
「……撮影にしても身体測定にしても、こういうことにはふつうだともう少し抵抗が出て来るものですが、訪問客の人たちはみんなこちらの指示通りスムーズに協力してくれました。それはやはり、ハイレッド・センターの選んだ帝国ホテルという装置によるものだと思います。(中略) がっしりとした石造りの入口を入っただけで、もうすでに荘厳な雰囲気の中に飲み込まれてしまう。」 *10
ここで赤瀬川が意味しているのは、「巨匠」フランク・ロイド・ライトの設計によるこの建築物の及ぼす物理的効果のことであるが、この効果自体、日本人の深層意識に刷り込まれたホテルのイメージとも関係しているのは明らかだ。「帝国」という名称自体、いかにも尊厳と威光に満ちており、戦前の「大日本帝国」時代の帝国主義政権とその絶対統治を避けがたく思い起こさせる。1945年の敗戦を機に、このような国家イデオロギーは少なくとも表面上は瓦解したとはいえ、権威主義的、あるいは、絶対主義的兆候は、天皇制の存続から、1950年代後半以降顕著になってきていた「マスの管理化」まで、姿を変えて根強く日本社会に残存していた。*11 加えて、敗戦後、1952年まで続いたアメリカ軍による占領期には、帝国ホテルは、東京の他の一流ホテルとともにGHQにより占拠されていたという過去も周知のものだった。それは疑いようもなく、そうした「権力」の在り処の象徴であったのだ。
また、このハプニングが最終的には核シェルターを制作するためのイベントであるよう装われていた点にも、留意しなければならない。赤瀬川の回想によれば、シェルターとは、「避難所みたいなことで、近くは、そのころアメリカで流行りだした原爆戦争のための防空壕のこと」*12 であった。シェルターをつくるという行為は、敗戦後、時をおかず、米ソを基軸とした冷戦構造の中に組み込まれ、その軍備保障と政策上の協調を、アメリカに著しく依存してきた日本人の、反・親入り混じった対米感情のありようを浮かび上がらせているかのようだ。
第二に、このハプニングにおいて「権力」のターゲットにされているのは、個人の持つ肉体そのものだということに留意せねばならない。見ず知らずの他人との吐息の交換、ある個人の身体のつくり・内部器官・口腔に関するきわめて私的な情報の共有、背面ヌード写真に挟まれ(あるいは重なって)カメラの前に身を晒す訪問者たち。さまざまな「肉体関係」がそこかしこに成立し、密やかに歪んだ官能の気配を醸し出す。中西は、のちに、このインストラクションをたとえて「空気によるセクシュアル・インターコース」と述べている。*13 ここではあたかも「シェルター・プラン・コンファレンス」という名の地下組織が、なにか極秘の指令のもと、訪問客たちの肉体をその生物学的特徴に従い分類・管理しようと試みているかのようなシチュエーションが演出されている。それは、個々人のからだを集合体の名のもとに統括しようとする、ある不可視の力が、ナルシスティックな身振りで自らを露出しているセレモニーであり、その「見えざる権威」の存在が映し出すファンタジーには、当然のごとく、支配と服従、ある肉体を「測る者/見る者/記録する者」と「測られる者/見られる者/記録される者」との間に成立する力学をめぐる、パワー・バランスのゲームとエロティシズムが影を落とす。
「不可視の権威主義」の存在を可視化しようという似通った試みは、すでに、前年1963年の1月から制作され始めた赤瀬川による一連の千円札の作品のうちにも認められていた。これらの作品は、当時実際に日本で流通し使用されていた千円札のコピーを印刷したり実物の精緻な模写を描いたりした作品だった。1963年の1月、物理的な「オブジェ」としての千円札に関心を抱いた赤瀬川は、実物の千円札から製版の型をつくる作業をある町工場に依頼し、その型を用いての印刷をまた別の町工場に発注した。できあがった印刷物に加工を施し、アートワークとして展示する。翌2月には、個展「曖昧な海について」の案内状において、片面には展覧会の会期や場所などの詳細を印刷し、もう片面には千円札の表面を印刷した。そして、関係者や友人たちに現金書留でその案内状を発送している。さらに翌3月には、「読売アンデパンダン」展にて、畳大、実物の200倍の大きさに拡大された千円札の手描きによる緻密なインク・ドローイング《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》を発表。そのほか、千円札の印刷物を用いて、さまざまな日用品を紙で梱包する作品なども多数制作していた。
(翌1964年1月8日、赤瀬川は、初めての警察による取り調べを受けることになる。以後、繰り返しの聴取と捜査が続けられ、65年11月には検察より起訴される。この事件は、その後、1970年まで続く長い裁判へと展開していった。法廷で赤瀬川は、千円札の「複製」を作成したのではなく、「芸術作品」としての千円札の「模型」をつくったのだと主張した。しかし、最終的に、1970年4月に、最高裁により上告を却下され、有罪確定のまま、この事件は幕を閉じた。)
しかしながら、この《シェルター・プラン》のハプニングを、たんにそのようなイデオロジカルな力の構造を浮かび上がらせたものとして片づけてしまうのは性急だ。肝心なのは、むしろそれがいかにしてそのようなシステムの外へ向かおうと試みたかを見極めることにある。こうして視点をずらしてみると、そこには「過剰のロジック」とも言うべきものが見えてくる。
《シェルター・プラン》は、そもそも始めから終わりまで、プラグマティックな生産性の原理を逸脱する無意味さで貫かれている。いったいどこの誰が核戦争の脅威から身を守るのに、このようなシェルターを、実際、必要としたりするのだろうか? なぜまたシェルターをつくるのに、含水量をチェックしておく必要があるのか? ハプニングの結果生まれることになるオブジェ——等身大、身長の半分、4分の1、10分の1のサイズで特注されるシェルター——は、この点で、驚くほど暗示的だ。それは、「過剰」そのもの、あらかじめ中身を欠いた容れ物だ。そして、印画紙に複製され箱の側面に貼りつけられたこれらのからだとは、言わば、実体の欠落した「幻影のからだ」であり、相手を持たない過剰としての非生産的な生殖から、まるで排泄物のごとく産み落とされる、自身の「ダブル(影/分身)」なのだ。奇妙にも、このナルシシズムと過剰の関係性は、ハプニング全体に漂う死の匂いを増幅している。シェルターを覆うべく撮影されたからだのイメージは、あまりにも冴え冴えとしており、あたかもセクシュアリティの拠り所となる肉の生々しさ、あるいは精神的存在としての個々人の持つ属性や情念を奪われているかのように映る。ここでファインダーをとおして映像に転移された肉体は、あたかもセクシュアリティを奪われているように思われる(このことはエロティシズムの有無とは直結しない。おそらくそれは、このハプニングの中で成立する「肉体関係」がジェンダーの差異を超えた、あるいは差異の発生する一寸手前の地点で発生しているためだろう)。なぜ肉体はまるで去勢されたそれのように映るのか。ひとつにまず、先述のナルシシズムと過剰のメカニズムが関係しているといえるだろう。そこには肉体をフェティッシュ(物神)化する作用がある。第二に、このハプニングの設定が、対象の調査・記録にあることも無関係ではない。それはまた写真、あるいはフィルムという媒体が本来持っている特性でもあるが、それらの媒体が「かつて、そこに、実在した生身の肉体」と現時点に立つわれわれとの間に介在することによって、われわれは否応なく複数の他者の視線を含んだかたちでイメージを追わざるをえない。カメラに捕えられ静止した背面ヌード、その横に寄り添う訪問客たち、さらに、その両者を直視する撮影者の後ろ姿、それらすべての肉体をひとつのフレームの中に封じ込む映写機——。まるでわれわれに許されているのは、「記録」という大義名分のもとに見つめられた肉体をさらに目撃することであって、視線を交わすことではないかのように。
ここで、ハイレッド・センターが、このハプニングの際に、彼ら手製の缶詰を、中身を明かさないまま、来訪者たちに売りつけていたこと思い起こそう。生身の人間をペラペラな6枚の表面に写し取る、あるいは小さな箱の中に封じ込めるという行為は、どこか、缶詰に材料を詰め込む行為に共通するところがあると言えるが、彼らのつくった缶詰の中のひとつで、1円玉がその原料であるアルミニウムのかすとともに詰められていたように、訪問者たちの肉体は、棺桶を思わせるシェルターの中に、決して収まらない中身、無機的な物体へと、還元されてゆくかのようだ。そしてまた、このハプニングが行なわれたのは、敗戦とそれに続く復興期が、日々、過去のものとなっていくなか、日本社会が未曾有の経済成長期へと突入していった最中(さなか)だったことを振り返ってみれば、ここに描き出されたのは、以下の丹生谷貴志の指摘に見られるような、きわめて1960年代的な身体イメージであったといえよう。
「朝鮮戦争からインドシナ戦争、或いは拷問の展示場と化したアルジェリア戦争、さらにヴェトナム戦争へと兵士の肉体は、再び近代的な重機甲部隊の鎧から弾き出されて戦場の中に露呈され始めていた。世界の肉体が再び或る苦痛の中に自らを確認し始めた時期に、しかし、日本的肉体は使い道のない過剰として、無益な消費の中にその姿を現わそうとしていたかのようだ。」*14
さて、ここで、いったん具体的なオブジェから離れ、いま一度《シェルター・プラン》のプロセス全体を見直してみると、そもそも、このハプニングのフォーマット自体、独自の「過剰のロジック」にもとづいて構成されていることに気づく。繰り返し、一方的に送りつけられる作法の要請、猜疑心を呼び起こすほど不適当なばか丁寧さ、数段階にも及ぶ回りくどい手続き——これらに象徴される度を超えた形式主義は、言わば「過剰な同一化の戦略」、つまり、「アイロニカルな模倣ではなくまさしくその度を越えた同一化によってシステム (支配的イデオロギー)を頓挫させる戦略」として機能しているといえる。*15 おそらく問題は、権威主義的体制に真っ向からアンチテーゼをぶつけることではなく、その体制がもはや意味をなさなくなる極限まで押しやることなのだ。この過剰な形式主義は、一連のプロセスにおいて、「力」を行使しているはずの主体の行為から意味を奪う。その存在意義は、結局のところ、表象以上でも以下でもなくなった、からっぽの身振りの享楽に耽るさまを見せつけることにしかない。この過剰な形式主義と主体の空虚化の状況は、のちに思想家のロラン・バルトが、その日本文化論で以下のように述べているように、ある意味で、日本においては、きわめて日常的な光景ともいえる。
「誰が誰に向かって礼節を示しているのか? この問いの中にしか、お辞儀を交わすことの意義は見出しえない。(中略)ここにおいて頌されるのは、意味自体ではなく、意味を刻むことであり、過剰とみなされる仕草の内に、意味されるものがまったく見当たらないような身振りが留められているのだ」*16
しかし、ここであらためて想起してみよう。「力」を行使する主体は初めからずれていた。この一見、悪ふざけとしか思われない「シェルター計画」を執行したのは、もちろん赤瀬川、和泉、高松、中西の4人のアーティストたちだが、客に協力を要請し招待状に署名したのは架空の人物、「私、ハイ-レッド・センター」なのだ。その「彼/彼女」自体「S・P・C」と名乗る実際には存在しない組織の、いわば下請人だと主張する。権力の名は、あくまで中身を持たない何かなのだ。ここで、アーティストたちは、「命ずる者」でありながら、「命ぜられる者」を装う。主体と客体の交替劇を楽しんでいるかのように。
こうしてまた、われわれは、あのキー・フレーズ、「曖昧さのポリティクス」へと立ち戻っていく。すると、このハプニングが「肉体」をめぐって展開していくことに、相応の意義が見えてくるだろう。人が「個」として存在するアリバイとしてのからだ——。それは、一方では、彼らアーティストたちが打ち砕こうと試みていたイデオロギーの最後の聖域であると同時に、また他方では、他者との関係性を生み出す、消し去りようのないアクチュアルな単位なのだから。
このように捉え直してみると、ホテルの壁に貼られていた3枚のヌード写真が、彼らアーティスト自身のものであったことは興味深い。ここで彼らは見つめる者の眼差しの前にその裸体を余すところなく晒け出している。言わば、押しつけがましいほどに、客体となることを主張しており、肉体は、あたかもなにか、科学的調査のために記録された無機的な物質であるかのように、驚くほど率直に露呈されている。それは寡黙なからだだ。感情であろうと欲情であろうと、私的で「内面的」な告白などを声高に述べあげたりはしない。彼ら、被写体が持っているはずの個人的・精神的存在としてのしるしは、巧妙にも隠蔽されている(まるでそんなものは存在しないとでも言わんばかりに)。その表面上の率直さに反比例して、映された肉体は、見る者のヴォワイヤリスティック(窃視的)な眼差しに際限なく所有されることを許さない。こちらに向けられた3つの背は、見る者の視線が、彼らの内的な領域へと踏み入っていくことをあくまで拒み、あたかも個々のパーソナリティを遮蔽するシールドのように機能する。肉体は、言葉の真の意味で、一枚の表面——内的な領域と外的なそれとを隔てる薄い不透明な膜——となるのだ。
「内部」と「外部」——これもまた、ハイレッドの構成員たちを引き寄せていた強力な磁力の重要な一要素であった。
ひとつ、この問題がひじょうに顕著に、説得力をもって表出している例を挙げてみよう。ハイレッド・センターの誕生に先立ち、1962年の10月の段階で早くも、中西と高松は、ふたりの友人たち、ウロボンK. とK 村田とともに、彼らの初めてのハプニングであった《山手線のフェスティバル》(のちに赤瀬川によって「山手線事件」と呼ばれることになるイベント)を、敢行していた。このハプニングでは、中西と高松は、東京の中心部を環状に回って走る電車の車中に、彼らの作品を持ち込み、公衆の面前で、奇妙でショッキングなデモンストレーションを行った。それは、中西による一連の作品《ポータブル・オブジェ(のちに「コンパウンド・オブジェ」と改称)》を携えて、アーティストたちが、品川駅で電車に乗り込むところから始まる。中西と高松は、ごく普通のサラリーマンかのようにスーツを着込み、メンバーはそれぞれに離れて車内の席につく。この出来事が、ある集団によって実行されているのではなく、個々人の自発的な行動によってなされていることを強調するために、注意深く、計画されたグループであるかのように見られる可能性を退けていた。そうして、彼らは、時に、乗客の注意を惹きつけるためにスポットライトで照らしたりしながら、オブジェの内部を凝視し、車内のつり革に吊したり、オブジェを愛撫したりし始める。協力者のひとりが、突如、自分と中西の顔を、真っ白く塗り立て、ウロボンK. は、実際の卵を鞄の中から取りだし、車中で叩き割り、卵の中身が、中西の「卵」、《ポータブル・オブジェ》の上に流れ出す。いくつかの記録写真の中では、中西は、「普通の」乗客であるかのように振る舞い、詩集の本を読んでおり、また別の写真では、より挑発的になって、穴の穿たれたポルノ本、イメージを引き裂いてつくられたさまざまなモンタージュによる写真の束を見つめている。ある写真の中では、乗客の頭の一部が、透明な《ポータブル・オブジェ》の中に透けて映り込み、また、同時に、オブジェの中に詰められた鏡が別の周囲の光景を反射させ、あたかも、作品が、それを取り巻く環境や人物の影で充填されているかのように見える。いくつかの駅では、アーティストたちは電車を降り、プラットフォームでもパフォーマンスを繰り広げた。有楽町駅では、ウロボンK. が再び卵を「卵」の上で割り、中西がしゃがんでオブジェを両手で掬い上げ、舌で舐め始める。白塗りのメーキャップの一種異様な雰囲気の効果で増幅されて、中西は、奇妙に歪んだ変態的な雰囲気を放っている。公衆にはばかることなく、自分の「子ども」である「卵」の作品を舐めて、その奇妙な「モノ」を、愛情深く味わっているかのようにすら映る。高松は、別の《ポータブル・オブジェ》を右手に吊り下げているが、何事もないかのように、新聞を広げて読みふけっている。この有楽町駅、そして上野駅では、高松は、彼の作品《紐》(1963)を、ウロボンK. とともに持ち出し、それぞれが両端を手にして「紐」を周囲に延ばしていき、「紐」は、プラットフォーム上を横断し、駅の改札を越えて、外界へと侵入していく。そして、このハプニングは、中西が突然駆け出して消えてしまったことで、終わりを迎えた。
ここで、彼らアーティストたちが到達しようと目指していた究極のゴールとは、このハプニングの案内状において示唆されていたように、自分たち、そして、公衆を「攪拌する」ことによって、個々人のあいだに「純粋な対話」が生まれ出る、そんな状況を創出することであった。、
「(前略)
おれ達は この流動体の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる。
この空白から純粋な対話を生み出す作業が執ように試みられねばならない。
構築物内に胡座をかくことを拒否し, 流動的で 充満した空白内の一点 たろうとするものの集合体がある。
この集合体は収縮, 分散の運動を繰り広げながら右記のサークル上を移動する。あなたが右の時間にサークル上又はサークル上の定められた点で, この集合体に出くわすなら, 空白内のカクハンされた一分子と化し, 個性を消され, あなたとおれ, おれ達と物質の認識不可能なルツボの中に落ちいるだろう。
(後略)」*17
「流動体」「攪拌」「欲求」「純粋な対話」「充満した空白内の一点たろうとするものの集合体」「空白内の攪拌された一分子」「個性の抹消」「あなたとおれ、おれ達と物質の認識不可能な坩堝」……。
このステートメントの中には、すでに、その後の中西、高松、赤瀬川、それぞれの作品、そしてハイレッド・センターの活動を特徴づける重要な関心事が、先取りされ、多数連なっているのがわかる。
なかでも鍵となるテーマを、いくつか順を追って見ていこう。
まず、自己と他者を「攪拌」すること。
これは、《山手線のフェスティバル》にも《シェルター・プラン》にも顕かな行為の特色であるが、この言葉が何をおいてもまず想起させるのは、中西が1963年3月の「読売アンデパンダン」展で披露した作品《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》(1963)だ。7枚の白いキャンバスに、燃え跡のような、黒い空白のような、いくつかの穴が見られ、無数の銀色の洗濯バサミが取り付けられている。ギャラリーという展示空間の中で展示されるべきものとしてつくられた作品でありながら、驚くべきレベルで、あたかも無数の洗濯バサミたちがキャンバスから飛び出して、見る者の身体にくっつき、外界へ拡散していくかのような、扇情的な行為の熱と流動的な運動の気配を、見事に結晶化し、醸している(実際、当時の展示期間中には、洗濯バサミはしばしばそうして展示空間を超え出ていった)。「流動体」「攪拌」「欲求」「純粋な対話」「充満した空白内の一点たろうとするものの集合体」「空白内の攪拌された一分子」「個性の抹消」「あなたとおれ、おれ達と物質の認識不可能な坩堝」……。ここには、まさに先にリストアップした言葉のほとんどすべてが、具現化し表出されている。
次に、「純粋な対話」。
いみじくも、彼らの作品や発言の数々が示唆しているとおり、彼らの抱いていた「内部」と「外部」という意識への関心は、ハイレッドの面々が早くから言及していた、「コミュニケーションへの関心」と、表裏一体をなしている。
1960年代初頭当時の日本において、「コミュニケーション」は、テレビの普及と各種雑誌の創刊ラッシュに代表されるマス・メディア網の発達に刺激を受け、もっとも頻繁に取り沙汰され、議論されたテーマのひとつでもあった。日本におけるテレビ放映は1953年に始まっていたが、たとえば日本テレビ開局の際のスピーチで「テレビの大衆化」が声高に謳われたように、テレビは当初からマスに対する有力なメディアと見なされていた。開局後まもなく日本テレビは首都圏の街角や駅構内に「街頭テレビ」を設置、この策が購買層を刺激しテレビ普及率の急速な伸びに一役買った。1962年までには日本全国で購入されたテレビの台数はすでに1000万を超えていた。このような状況下にあって、「一億総白痴化」を危惧する声も、1950年代の終わり頃にはしばしば聞かれるようになる。
ハイレッド・センターのメンバーたちが抱いていた「純粋な対話」への憧憬は、一方で、こうした危機感に根差すものであると同時に、また他方では、不特定多数の人々を対象に無作為に語りかけてゆくという行為に対する、ある種の期待感を反映していたように思える。実際、彼らは、時に、パフォーマンスを伝達する手段として、テレビ番組を利用してもいた。
「純粋な対話」への期待感の強さは、たとえば、高松が1962年に「純粋伝達研究グループ」という名で行っていた先駆的な試みに、わかりやすいかたちで認められる。手製のステッカーを作成し、 それを公衆便所や電話ボックスなどの公共の場に貼った本作では、ステッカーには渦巻き状に描かれたふたつの同心円が組み合わされたものが印刷されており、円端はそれぞれ内向きおよび外向きに折り曲げられ伸びていた。その下には以下のような文が添えられていた。
「ここでは誰にも見られていません! 上の図をながめ、自由に想いをめぐらし、勝手に描き加えて下さい。続きは次の人にまかせましょう。そのようにして、人々の“純粋な伝達”ができるのです。」*18
最後に、「個性の抹消」「あなたとおれ、おれ達と物質の認識不可能な坩堝」に陥りたいという欲求について。
「自己と他者のあいだに純粋な対話を発生させ、両者を隔てている境界を越えていくこと」——まさにこの関心事において、赤瀬川は、中西や高松とのあいだに、重要な共通項を見出していくことになる。赤瀬川自身も、1961年の時点ですでに、人は、完全に自分自身となるためには、同時に「他者」とならねばならないと語り、「他己批評」の必要性を主張していた。*19
「内部」と「外部」の融合、あるいはその反転への、このような関心は、さらには、たとえば《シェルター・プラン》の際に制作・販売された缶詰作品からも、容易に伺い知ることができる。赤瀬川は、その後、このイベントと同年の1964年に、似たような缶詰作品を制作しているが、そのひとつは、《宇宙の缶詰》と題された作品だった。ここでは、赤瀬川は、市販の缶詰から中身を取り出し、商品名の入ったラベルを丁寧に剥がしたあと、その同じ缶の内側にラベルを貼り直し、再度、封をして提示した。この人を喰ったブラックジョーク入りの小さな缶は、じつのところ、壮大なスケールのコンセプトを秘めている。つまり、本来、缶の外側に付いていたラベルをその内側に移し封じ込むという行為を通じて、少なくとも理論的には、赤瀬川は「宇宙を(その缶の外側に広がる全空間を)缶詰にした」というわけだ。薄っぺらいブリキの仕切りに隔てられ、缶の中身はいまやそれ以外のものの「外側」であり、これまで「外側」と思われていたものが「内側」だ。
言うまでもなく、この缶詰作品は明らかに、赤瀬川のそれまでの仕事の延長線上にある。一連の梱包作品はそのもっとも端的な例であり、包み封じ込むという作業は「内部」と「外部」を発生させる(あるいは無効化する)何ものかを照らし出す行為にほかならない。このような意識は、1963年の初夏に『形象』誌第8号に発表された赤瀬川自身のテキスト「スパイ規約」においても、すでに言及されていた。
「……その対人用ピストルを前にしていると、彼の肉体は膨張して行く。ちょうどポップコーンの様に、肉が酸素に触れてふくらみながら、めくれて行くのだ。と云うより、ここにある一個の肉体の中に彼の意識は奥に向って、存在しない最後の中心部に向って、無限小に向ってめりこんで行く。すると、ちょうどそれに反比例しながら肉体は膨張し、中から部屋を包む様にふくらみながら、はみ出して道路を覆い、電車の中を塗りつぶし、無限大に向って膨張していくのだ。 完全な無限大とは無形の事であり、この世の中では無限と云うものが存在出来ない以上、彼の、一番近くにあるこの一個の肉体は、無限大に膨張しながら無に向って進行中であり、はっきり細部まで見える程大きくなりながらも消えつつあるのだ……。」*20
外部空間をパッケージするという発想は、ハイレッド・センターがつぎに行なったハプニング、《大パノラマ展》(1964年6月)にも明らかだ。ここでは、東京のある画廊が、展覧会の期間中、ハイレッドのメンバーたちによって、閉鎖された。これもまた、しばしば、たちの悪い冗談、あるいはあまりにもナイーヴな「反芸術」的意思表明として評されてきたが、おそらく事態はもっと率直なものなのだ。そのタイトルが示唆するように、ここで「展示」されたのは画廊の外側、ありきたりで生(なま)のままの日常のパノラマであったのかもしれない。「芸術」の空間と「非芸術」の空間のロール・チェンジ、「外部」との関係性を「いじくる」こと。このような意識が潜在していたからこそ、中西は後年、《シェルター・プラン》を 喩えて、ホテルと人々との間に「相互浸透」 作用を導入した、と語ることになったのだ。*21
さて、こうして振り返ってみて、私たちは何を「目撃」しえただろうか?
《シェルター・プラン》とは、要するに、きわめて簡潔に言ってしまえば、「観客/共同制作者」として招かれた者たちが、都市の只中に位置しながらも、外部世界から遮断されたホテルという密室の内部で、招いた側のアーティスト(あるいはその場にたまたま居合わせ、吐息を交した赤の他人)との間に、偶発的な「関係性」を成立させた行為の体験、アーティストたち自身と他者である訪問者たち、両者が、互いの私的な領域を瞬間的に共有する場を創出した試みであったのではなかろうか。
そして、東京という都市にのみ出没した彼ら、ハイレッド・センターにとって、公的な外部空間に接触することは、この首都を構成する諸要素に触れることでもあった。時は折しも、「東京大改造計画」の真っ最中、目覚ましいスピードで街並の景観が変貌しつつあった頃、この都市の真の姿は何処に見出されようとしていたのだろうか。この点において、ハイレッドが《シェルター・プラン》の際に使用したカセットテープはきわめて象徴的だ。覚え書を受け取った人々が指示に従ってかけた電話口では、何ひとつ言葉は交わされず、ただ、サウンド・アーティストの刀根康尚が録音した、東京駅のプラットホームの騒音が流れていただけだった。*22 帝国ホテルは、東京という都市のからだをかたちづくるあるパーツであったと同時に、また、この街自体を内包する、ひとつの「肉体」であったのかもしれない。ここで、ある言葉——このハプニングの記録映画を撮影した城之内元晴が、彼自身の抱く「帝国ホテルに対するいわゆる幻想譚」について回想していた言葉 ——が聞こえてくるのは、奇妙な偶然なのだろうか?
「ここ[帝国ホテル]の通路を入っていくときは、丁度ピラミッドに入っていくような気分になるわけです。(思うに)あっ、これは都市そのものだなっと……。」*23
*1……
ウロボンK.「直接行動の兆し Ⅰ、Ⅱ」『形象』第7号、第8号、1963、東京。
ウロボンK.は中西の友人で、この座談会に、中西と高松とともに参加していた。また、高松と中西による最初のハプニング《山手線のフェスティバル》(1962)にも、K 村田とともに参加している。
*2……
ここで言う「旧左翼」とは、広義に従い、日本共産党および既存の左派諸政党の党員もしくはそれらのシンパサイザーを指す。そのなかでもとりわけ、終戦後、知識人層のなかで影響力のあった共産党は、自身の「極左冒険主義」を否定的に反省する声明を出した1955年の「六全協」、および翌56年のフルシチョフによるスターリン批判の余波を受けて、徐々に多くの支持者を失いつつあった。こうした既存左派勢力への失望感は、1960年、日米安全保障条約改定に対する全国規模の抗議運動の高まりのなか、それらの政党(ことに共産党)が消極策に留まったのを機に、決定的なものとなっていった。これに代わり、指導的立場を担おうと躍り出た社会党もまた、闘争のなか、まもなくその保守的傾向を露呈していった(日米安保条約は、1951年、サンフランシスコ講和条約の際に締結され、翌年執行された。この条約により、米軍は日本各地において駐屯する権利を法的に認知されることとなったが、それはまた、日本が冷戦構造の中で、米軍の極東政策に重要な位置を占めていくことを意味していた。1960年の条約改定の際には、日本の実質上の再軍備、アジアにおける軍事紛争への関与などを懸念し、全国各地で大規模なデモが連日繰り広げられ、国家全体が巨大な渦の中に呑み込まれていく。これらの抗議も空しく、改定は同年6月19日に自然承認された)。
*3……
歴史はつねに単純な図式を超え出るリアリティから切り離すことはできないが、それでもあえて客観的に過去を記述しようと試みるならば、敗戦後から1950年代半ばまで、日本におけるいわゆる「前衛(アヴァンギャルド)」美術家たちのなかでは、戦前から連綿と続く日本的なシュルレアリスムおよび社会主義リアリズムのふたつの傾向が主流であった。戦争の惨禍を身をもって経験した芸術家の多くは、戦前の「プロレタリア・アート」に立ち戻るか、もしくは、共産党の芸術政策に準拠した方向で活動を再開していた。アンドレ・フージュロン、ボリス・タトリツキーなどのフランス共産党の画家たちの作品が、展覧会や美術雑誌をとおして、相次いで紹介されていた。しかしながら、50年代の初めには早くも、社会主義リアリズムの持つ教条主義的傾向や、芸術的感性の自由で個性的な表現力を欠いた単なる「悲劇的メロドラマ」へと陥りがちな側面への批判が聞かれだす。共産主義・社会主義と芸術の関わりを問う論争は、頻繁に雑誌の誌面を賑わせていた。社会主義リアリズムが低迷の一途を辿るのに並行して、若い世代の作家たちは、53年に創設された「日本青年美術家連合」へと集っていく。この世代の画家たちが中心となって、1957年の「アンフォルメル旋風」まで支配的な位置を占めることになるふたつの流れ——ひとつは「ルポルタージュ・ペインティング」と総称されるもの、もう一方は、終戦後の混乱からさまざまな矛盾をはらみつつも急変していく日本社会に潜在する抑圧(あるいはより普遍的な意味での人間存在の不条理)などを示唆するような一連の作品群——を生み出していく。先述のように、50年代半ば以降、日本社会一般に、左派勢力への幻滅感が募っていくなか、政治的コミットメントを抱く美術作家たちの活動も混迷の中へと突入してゆき、東京を中心とする美術界の動向や政治色の濃厚な次元から一歩距離をおき、独自の方向性を切り開こうとするものも出てくるようになる。近くハイレッド・センターを機動させることになる3人の作家たちが、いかにこうした動きに触発・反応していたかを正確に論じるのは、きわめて困難である。 赤瀬川個人は、この時期、社会主義リアリズムにほのかなシンパシーを持っていたため、その大家として知られていた画家のアトリエで学ぶ志もあって、55年に武蔵野美術学校に入学したと、のちに語っている(筆者によるインタヴューにて。1995年6月)。ほかのふたりは、この点に関しては、コメントしていない。彼らの共通の友であり、のちに雑誌『形象』『機関』の編集人として、彼らのテキストや作品を掲載し、ハイレッド・センターの諸活動を身近に目撃していた今泉省彦によると、彼自身は「日本青年美術家連合」と「全学連」の主催による「第5回世界平和友好祭のための学生協議会」で、初めて、中西と高松に出会ったと記している(今泉省彦『機関』第11号、1980年、93ページ。および、筆者とのインタヴューにて。1995年6月)。しかしながら、後年、高松が思い起こしているように、「アナーキズムと共産主義は、あのころ同じだった」という時代状況をかんがみれば、彼らがどのように、またどの程度、「ポリティカル」に、社会情勢や芸術運動に関与しようとしていたかは断言されるべきではない(高松「ぼくが学生のころ、多少なりとも現状に批判的になる部分ということが、非常に単純なものしかできていなかったと思いますね。そうじゃないと芸大でも日動画廊、あの辺で売れる作家になり得るかどうか、ほとんどの部分占めたでしょう。現状に対してやっぱり反感を持っている部分が、やっぱり共産主義みたいなものしかなかったっていうことなんですよね。(中略) アナーキズムと共産主義は、あのころ同じだった。 」「百花斉放・作家の眼」『美術手帖』1971年12月号、美術出版社:東京、81ページ)。
*4……
「直接民主制」というフレーズは、赤瀬川、高松、中西を囲んで、1984年1月10日に行なわれた座談会での発言の中から引用した。「寂しげで冷ややかな浸透力:フィクションとしてのハイレッド・センター」 (赤瀬川原平『東京ミキサー計画:ハイレッド・センター 直接行動の記録』、PARCO出版局:東京、1984年、224ページ参照)。
*5……
中西夏之「《千円札裁判》における中西夏之証言録(二)」、『美術手帖』1971年11月号、美術出版社:東京、206〜207ページ)。
*6……
赤瀬川、前掲書、120〜121ページに再録。
*7……
同前、122ページに再録。
*8……
同上。
*9……
Munroe, Alexandra, Japanese Art after 1945: Scream against the Sky, Guggenheim Museum: New York, 1994, p.159.(和訳は筆者による)
*10……
赤瀬川、前掲書、134〜135ページ。
*11……
「マスの管理化」というテーマは、1960年代初頭以降、評論家たちにより頻繁に取り上げられるようになる。これは、たとえば1958年には100万人を突破し話題を呼んだ「団地族」の出現など、 当時の社会状況を反映してのものだった。さらに1963年に発表された論文「ベストセラーの戦後日本史」によれば、日常生活において役立つさまざまなテクニックを紹介する類いの書籍(いわゆる「ハウツーもの」)も、1958年以降、かつて例を見ない勢いで売り上げを伸ばしていた。著者の見田宗介は、この現象を、標準的な作法とテクニックが普及し「大衆」の画一化が心理的レヴェルにまで及び始めているものと論じている(この件に関する詳細は、つぎの書籍を参照されたい。上野昴志『肉体の時代——体験的60年代文化論』、現代書館:東京、1989年)。
*12……
赤瀬川、前掲書、128ページ。
*13……
吐息の交換に関するインストラクションは、イタリアのピエロ・マンゾーニによるプロジェク ト《アーティストの息》(1959)、マンゾーニ自身の息を容器に詰め1リットルあたり200イタリアン・リラで販売したハプニングを思い起こさせる。「絶対的創造主としての芸術家」という神話に対するこのような嘲笑的攻撃は、たしかにハイレッド・センターの「構成員」たちにも共通する関心事のひとつであったが、かといって彼らが直接マンゾーニからインスピレーションを得たかどうかは定かではない(1950年代初期に始まるダダの再発見を受けて、この時期、因習的な芸術家信仰に挑みかかろうと試みていたアーティストは、世界的な規模で多々見られたことも考慮しなければならない。メンバー自身語っているように、ハイレッド・センターにおけるデュシャンの影響の重要さは容易に推し量ることができる)。なにより重要なのは、ハイレッド・センターのインストラクションの焦点は「息の交換」にあるということであり、訪問客とその横にたまたま居合わせた赤の他人との間に偶発的に成立する言葉に拠らないコミュニケーションとは、ハイレッドの面々がおのおの早くから言及していた、個人間に生まれる「相互作用」への関心にもとづくものであったように思われる。
中西、前出記事、203ページ参照。
*14……
丹生谷貴志「肉体の眠りへの抵抗」『STUDIO VOICE』1991年8月号、インファス:東京、12ページ。
*15……
Zizek, Slavoj, The Metastases of Enjoyment, Verso: London, 1994, P. 72.
(引用文は筆者による和訳。原文はイタリック)。
ここでジジェクはこの戦略を1990年代の「ポスト・イデオロギー」的風潮へのアンチテーゼとして掲げており、その論調には多分にポストモダニズムの狂騒を経た地平からの視点が含まれている。しかしながら、ジジェク自身指摘しているとおり、そのコンセプト自体は1960年代以降のラカンの仕事から展開されたものであることも確認しておかな ければならない。
*16……
Barthes, Roland, L'empire des signes, Editions d'Art Albert Skira: Genève, 1970.
(引用文は筆者による和訳)。
なお、宗左近による邦訳版『表徴の帝国』(新潮社、1974年)では、該当箇所は以下のように訳されておりひじょうにわかりにくい。
「誰が誰にお辞儀するのか? ただこのような問いだけが、このお辞儀を正統化して、(中略)お辞儀のなかの意味ではなく、書体に勝利を得させて、わたしたちが行きすぎと読みとるその姿勢に、動作の控え綱をつける。」(88ページ)。
*17……
ウロボンK・J 高松・N 中西・K 村田による《山手線のフェスティバル》案内状より引用。
*18……
高松次郎により「純粋伝達研究グループ」の名で制作されたステッカー(1962)より引用。
*19……
赤瀬川「他己批評」
「若い冒険派は語る」『美術手帖』1961年8月号、美術出版社:東京、115ページ。
*20……
赤瀬川原平「スパイ規約」『形象』誌第8号、1963,東京、22〜26ページ。
なお、このテキストに関する詳細な論考は以下の記事を参照されたい。
石子順造「ハイレッド・センターにみる美術の《現代》」『美術手帖』1971年8月号、美術出版社:東京、184〜199ページ。
*21……
中西、前出記事、207ページ。
*22……
中西、前出記事、203ページ。
*23……
中島崇によるインタビューでの発言から抜粋。中島崇「創造の拠点2 日本の実験映画:日大映研——城之内元晴:学生映画のはじまり」『月刊 イメージフォーラム』1986年10月号、イメージフォーラム:東京、149ページ。
◇日本語版初版掲載時の講評
●優秀論文
『武蔵野美術』創刊100号記念論文募集、優秀論文発表
「曖昧さのポリティクス:『シェルター・プラン』 東京、一九六四」川出絵里
●選考委員による選評より抜粋
柏木博
武蔵野美術大学教授・本誌編集委員
川出絵里の論文「曖昧さのポリティクス:『シェルター・プラン』——東京、一九六四」を推薦した。この論文は、ハイレッド・センターが一九六四年に帝国ホテルで行なった『シェルター・プラン』という 「ハプニング」について論じたものである。川出は、ハイレッド・センターのハプニングを対象にして、外的システムとしての社会的制度の力と構造と、その構成単位としての個あるいは主体の内的メカニズムとの関係性に目をむける。また、個々の肉体に生ずるアクチュアルな関係性ははたして全体性の中に一元的に還元されるのかということを川出は問う。ハイレッド・センターのハプニングは、都市の中にあって、外部世界から遮断されたホテルという空間で、アーティストと観客とたまたまそこにいた人々とが偶然的な関係性を成立させ、私的な領域を一瞬、生成させる行為だったのではないかと川出は見る。そこにハイレッド・センターの存在、そしてその表現の「アノニミティ」 (匿名性)と「インディヴィジュアリティ」(個別性) というパラドックスを成立させている〈曖昧さの力 学〉を解読していこうとする。また、単に社会と個体との抽象的関係性だけを論ずるのではなく、それらの問題を東京オリンピックという出来事を契機として、急速に変容する戦後社会の時代の中において論じている。刺激的な論文であると感じた。
高島直之
美術評論・本誌編集委員
川出絵里の応募論文「曖昧さのポリティクス: 『シェルター・プラン』——東京、一九六四」は、「ハイレッド・センター」の二年足らずの活動に注目し、とりわけ、六四年一月のハプニング 『シェルタープラン』の歴史的意義を論じるものである。一般に、ハイレッド・センターの諸行為は、同時期のいくつかのパフォーマンスとともに、美術館に収まる大芸術主義への反動として、その「日常性への下降」が、強調されがちである。しかし、川出は、彼らにおける「匿名性」と「個別性」との背離において、これを客体と主体との交替劇とみなし、そこに〈曖昧な力学〉をみていく。本論は、当時の社会的抑圧と過剰な身体性にのみ帰することなく、この都市にみられる特異な現象である「転換期の都市風景」の中に彼らの作業を置きつつ、六〇年代の文化と思想とを同時にすくいあげる、その構想の広さ、新鮮さにおいて、推奨した。
日本語版初版は、1995年初夏〜96年晩夏執筆。英語で書いた長い論文「The Politics of Ambiguity: The Art and Theory of Hi-Red Center, 1963-1964」より、一部抜粋・加筆・改訂し執筆した。
初出=『武蔵野美術』No. 104、1997年春号、武蔵野美術大学出版局:東京
この日本語改訂版は、2022年12月加筆し、作成・公開。
*
1995年の初夏に、東京で、赤瀬川原平さんと中西夏之さんには、お電話と対面とでお話を伺い、取材させて頂いた。すでに高松次郎さんはご病気でお話しすることがかなわなかった。後日、元の長い英語論文と、雑誌に掲載されたこの一部抜粋日本語版の写しを、お送りしたところ、おふたりそれぞれから、ご丁寧に、あたたかなねぎらいと謝意のお言葉を、お手紙で頂戴した。「ドキュメンタリー映画を観ているような気持ちになりました」というお言葉を赤瀬川さんから頂いたのが嬉しく、よく覚えている。直接お目にかかって長時間お話しさせて頂く機会に恵まれ、当時、おふたりとも、ずばぬけて研ぎ澄まされた知性と感性、発想力を兼ね備えた方々だという印象を強く受けた。中西さんが策士でいわばボス格、発想と行動を率先する先鋒が赤瀬川さんだったのかな、と感じた。その数年後、刀根康尚さんに仕事で長時間の対面インタビューをさせて頂き、その後、この日本語版をお読み頂いた。アーティストであるとともに、1960年代から70年代にかけて重要な同時代アートの批評と編集の仕事も多数手がけていらした刀根さんに、「なにかとんでもないものを読んだ感覚に襲われている。言葉にできない衝撃を受けた」と仰って頂けたことも、嬉しい想い出である。そう言えば、オノ・ヨーコさんとも、幾度か大きなお仕事をご一緒させて頂いたのに、この《シェルター・プラン》を当時体験なさった想い出をお聞きし忘れていた。少し心残りである。