エコノミック・デュシャン
——1. 産業構造の革新と市場経済の体系化
2. 生計、商業活動とアート・ディーリング
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産業構造の革新と市場経済の体系化
経済原理とアートの関係性——《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称「大ガラス」》(1915-23)までのデュシャンの仕事の奥底には、そんなきわめて現代的な意識が一筋、控えめではあるがあたかも執拗な通奏低音のごとく流れている。
たとえば「機械的なるもの」を描くという行為にしても、産業資本主義の言語を芸術作品の領域に援用するという行為にほかならないものであった。
デュシャンがアーティストとしての自己を確立していった19世紀末から第一次世界大戦期のフランス社会とは、相次ぐ技術革新と資本投資制度の改善によって、産業経済における生産性が飛躍的に向上した変革期の社会であった。
自動車業界誌や工学系学術誌からのサンプリング、ギョーム・メソッド(国際的な技術革新競争に備えるべく、1881年、エコール・デ・ボザール校長ギョームにより考案され、初中等教育課程に採択された工学製図実習用教本)に準拠した機器製図法の導入など、デュシャン作品における視覚言語の選択は、こうした時代背景を抜きにして語ることができない。
また他方では、この時代以降、1920年代にかけて、近代的生産・流通・消費体系も急速に確立していくが、《エナメルを塗られたアポリネール》における広告イメージの流用、ベル・エレーヌ香水瓶における商標の使用、モンテカルロ債権の発行、《大ガラス》の独身者たちに見られる百貨店通信販売カタログからの図像の援用など、加速的に成熟する市場経済と密に絡み合う作品も数多い。
しかしデュシャンはなぜ、どのような意図をもって、こうしたアプロプリエーションを採択したのだろうか? なにより肝心なのは、彼の作品に現われる「機械的なるもの」はすべて、通常の経済的有効性に裏打ちされた生産性の原理から逸脱する「非生産的な存在であるということだ。
《大ガラス》にしても《ロトレリーフ》にしても、それらは、本質的にはなにものをも産み出さない不毛な 機械にほかならず、生成と頓挫の飽くなき円環活動の中で宙吊りにされたまま、完結すべき目的性を所有しえない。
産業言語から商業的有用性を奪回し、無用物=アートへと還元すること——それは、経済原理の前に敗北しつづけるしかない「高等な」芸術への嘲笑であると同時に、発展しつづけるべく定められた市場経済の掟に対して、決死の「復讐」を企む一個人/アーティストとしての自己表明行為であった。
Photo Caption……
ギョーム・メソッドによる教師のための資格認定試験準備用教本 『初等課定 模倣デッサン』 (1887) より
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生計、商業活動とアート・ディーリング
カバンヌ 「……これまでの人生を振返ってごらんになって、あなたがいちばん満足なさっているのはどんなことでしょう。」
デュシャン 「まず、運がよかったことですね。実際のところ、私はこれまで生活のために働かなければならなかったことはないのですから。生活のために働くというのは、経済的な観点から見ても、少しばかげたことだと思います。私はやがて人びとが無理して働かなくても暮らしていけるようになるだろうと期待しています。」
マルセル・デュシャン×ポール・カバンヌ、1967
とある動物生態学者の言うことには、ヒトという種の進化をそのほかあまたの動物たちのそれから隔ててきた特色のひとつには、「余暇の時間」を創出し増大させていくという観点が存在するそうだ。
デュシャンの語る〈働かなくても暮らしていけるようになるだろう〉という期待は、人類の進化の過程を一気に駆け上がろうと空想した男の漏らしたある種の希望的「予言」のようでもあり、あるいはまた、彼自身認めるところの〈途方もない怠惰〉を抱えた己の性質への言及のようにも響く。
どちらの受け止め方がより的を射たものなのかはさておき、デュシャンといえども現実の社会においてはたんなるひとりの人間にほかならず、生計を立てるという問題とももちろん無縁ではなかった。
あるときは図書館の司書として、またあるときはフランス語の個人教授として日銭を稼ぎ、公証人の父親から譲り受けるべき遺産分配金を前渡しで長きにわたって受け取っていた。
アート・ディーリングまがいの商業活動もじつに細々とではあるが行なっていたのも事実で、1927年にはニューヨークであったクイン・コレクションの売り立ての直前に、ブランクーシ自身に頼まれて彼の作品を買い戻している。友人のロシェとふたりで15点ほどのブランクーシを分け合い、その後、15〜20年間にわたって、金が必要になるとそれを売りさばいてしのいでいたという。
そのほか、画商をとおさず直接自作をちょこちょこ買い戻し ては売り直したりもしていたし、1934年には『グリーン・ボックス』を、1938年には《トランクの箱》を、それぞれ300部の限定で出版開始し、亡くなるまでゆったりと制作し売りつづけた。彼は回想する。
「生計というのは、稼ぐことより、むしろ消費の問題なのです。何を必要として生きたいのかを知ることなのです。…そうです。たいへん安上がりに生きていたのです。」
○引用はすべて前出のインタビューより抜粋。『デュシャンの世界』岩佐鉄男・小林康夫訳、 朝日出版社:東京、1978